Running Out

先月に開店したバンクーバー初の猫カフェ「CATFE」が、ついに猫切れで一時閉店した。北BCのシェルターから猫を迎えて準備をするまでの間、とりあえず一週間ほど休業することになったらしい。「どうか誤解しないでほしい、現在バンクーバーに里親募集中の猫が一匹もいないのではない。このカフェで紹介できるのは、特に社交的で、環境の変化に強く、他の猫とも仲良くなれる猫だけだった。猫を家族にしたい人は、このカフェだけではなく、いまシェルターにいる他の猫たちの情報もチェックしてほしい」といったコメントが店側から自然に出るあたりも含めて、本当に私は、この街が好きだ。こういうニュースをちょくちょく見れば、鼻血が出そうなほどの所得税率にも、アホみたいに上がり続ける家賃の相場にも腹が立たない。私はこのまま地下暮らしで構わないから、さあ持って行きたまえという気分になる。

ところで、米国や日本のペット愛護団体の活動を TL などで見ていると、どうも切羽詰まりすぎてるように見えてしまう。捨てられた犬猫の悲惨さ、人間の身勝手さを語り、「これを見ても心が痛まないのですか!」と泣きながら説教をしかけてくるような傾向が強いと感じてしまう。それはもちろん仕方のないことだと理解している。実際、いままさに、わんさか犬や猫が死んでいるのだから、どうにかして助けたいという気持ちがあれば必死になるのは普通のことだし、頭が下がるし、それを嘲笑する気は毛頭ない。

ただ、本当に申し訳ないのだけれど、「私が犬や猫を捨てたわけでもないのに、そしてペットショップではなくシェルターから動物を迎えたいと思って情報を探しているのに、それでもまだ説教ばかりを何度も読まされる側」にしてみれば、どうしても相手がヒステリックで近寄りがたい人のように感じられる。これから長いつきあいを続けることができるのか不安になる。それは、「ヒステリックになるのが当たり前の状況だということは理解できても、それでもなお、人付き合いをするうえで厄介なことになりそうだという、直感的な恐怖が生まれてしまう」という意味だ。

なんとかこう、もうちょっと穏やかにお願いできないものだろうか。「この写真を見ろ、こんなに悲惨だ、この写真を見ろ、こんなに可愛いのに、こんなに死んでいる、なんて可哀想なのだ、さあ無知な者たちよ、悔い改めろ」と声高に叫ばれると、なんだか陰鬱な気分になる。「私のやろうとしていることも無意味だ。所詮、動物を飼うということ自体が身勝手な行動なのだ。みんなやめちまえばいいのに」という心境に陥り、ブラウザを閉じてしまう人も少なくないのではないか。また、「死の一歩手前で救い出されたペットと、心の優しい飼い主との愛情が生み出した、涙の感動ストーリー」を押しつけてくるケースも、正直なところ私は苦手だ。いい話なのは分かるけど、ちょっと距離を置きたくなる。

私は、みんなが涙を流すような感動的なエピソードを実体験するために動物を迎えたいのではないし、「ひとつでも多くの命を自分の手で救いたい」という正義感に駆られているわけでもない(そういう人のことは尊敬するし、時には金銭的な援助もしたいけれど、私は自分がそちらのチームの一員でないことを知っている)。ただ私は自分の生涯に、他の何より優先できる伴侶がいてほしいだけだ。そのときには「誰もがほしがる仔犬ちゃん」ではなく、「飼い主を必要としている犬」を選ぶほうが、犬側にとっても都合がいいだろうというシンプルな話だ。

ひねくれているだけなのかもしれない。しかし私は、「どのようにすれば、あなたにもペットにも幸せな形で縁組ができるのか」を冷静に、怒らずに考えて、なるべく誰の負担にもならないような解決法を見出そうとする人のほうに説得力を感じる。だから CATFE のような店を見ると本当に嬉しくなる。いや、いまの日本や米国のシェルター事情が、そんなに余裕ぶっこいてられる状況じゃないのは分かる。悠長なことをやってる間に、どんどん犬猫が死ぬというのも分かる。それでもやはり、あからさまに感情に訴えようとする情報提供や、人を泣かせて改心させようとするような戦略は、長期的に考えると逆効果になることもあるのではないか? と私は思う。

いや、それでも皆さんのことを、単純に尊敬してはいるのですよ。(だったら黙ってろ、と言われるのであれば、私は「ごめんなさい」と返事をするしかない)