Left All Alone

 私は基本的に単独行動を好みがちな傾向があり、そのうえ性格に難があるので極めて友達が少ない。この数年間は特に、つい感情を剥き出しにしたくなるような出来事が何度か起きたせいもあってか、日本でもカナダでもどんどん友達の数を減らしてしまった。年に一回ぐらいの頻度で会ってくれるだけの相手を含めても、 いまでは世界に五人ほどしか友人がいない。そのうち一人は元夫であり、もう一人は元夫の前に交際していた人物だという点からも、自分がどれほど限られた人間関係を築いてきたのかが確認できる。

 さらに私には、同僚のような人物が一人も存在しない。私の勤務先は基本的に日替わりだからだ。六〇以上ある学校の中から、その日に要請された現場へと単独で乗り込んでいくスタイルの、直行直帰の業務となっている。職場に着いたら自分の名前を名乗り、仕事を終えたら「またいつかお会いしましょう」と告げて帰宅している。そんな人間が家族も恋人もルームメイトもいないまま八年も一人暮らしをしているのだから、たいへん孤独だ。

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 そしてつい先日、私はまた貴重な友人をひとり失ってしまった。本当に大事な親友だった。少なくとも私はそう思っている。あることがきっかけで、 その人は数ヵ月前から毎日のように「おはよう」だとか「今日こんなことがあったよ」だとか「おやすみなさい」といったテキストのメッセージを交換できる相手になった。しかし、そのあとで痴話喧嘩のような別れ方をしてしまった。

 日常的に話しかけられる相手ができたと思ったら、あっさり消えた。とはいえ私は「週一回の打ち合せ以外、ほとんど誰とも連絡を取らない、警戒心の塊みたいな引きこもりライター」として数年間の地下生活を続けていたから、ふだんの生活で人と関わらないことには慣れていたはずだった。しかし、その打ち合せの相手を不条理に奪われて、もうこれ死ぬんじゃねえのかと思うぐらいに落ち込んだあと、とつぜん 「誰かと日常的に楽しく会話できる期間」が与えられて、 久しぶりの状況に舞い上がっていたら、そこからまた一人に戻ってしまったのだ。この揺り返しはけっこう堪えた。同時に私は、ずっと昔から仲良くしてくれていた稀少すぎる友人、日本へ行くたびに私と遊んでくれていた優しい友人を失ってしまった。その事実があまりにも憂鬱すぎたので、長期の夏休みに帰国する気力を無くした。航空券もキャンセルしてしまった。まったくもって圧倒的に孤独だ。

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 幼い頃から私は、自分の気持ちが落ち着かないときの対処法として「妄想」を用いてきた。いま自分が置かれている状況とは異なった空想上の世界に心を投じることができれば、とりあえず一時的には精神の安定を保つことができるのだ。もちろん、それが少しも効かないぐらいに心が乱れてしまうときも多々あるのだけれど。

 この数日間の私は、どうにもならない寂寥感を紛らすための舞台として、私以外の全ての生き物が死に絶えた地上を脳内に作り上げてきた。要するに「人類最後の一人系」とでも言い換えられそうな、非常にありきたりな妄想だ。ただちょっとだけ変則的かもしれないのは、「何らかの事件が起きて、自分だけ一人ぼっちになった」のではなく、「実は生まれたときから現在までずっと一人だったので、暇つぶしにいろんな人物やエピソードを脳内で作り上げてきただけ」という話にしていることだ。

 つまり、いまの自分が置かれている現実のほうが、「地上で一人ぼっち」の寂しさを紛らすために作り上げた緻密な妄想だという設定にしている。いまの私を叩きのめしている絶望も孤独も後悔も、あるいは過去の私に降りかかってきた信じられないような悲しい出来事も、ぜんぶ自分が「何も起こりえない人生」の味付けとして生み出したもの。これは築き上げずにいられなかった空想。 最初から最後まで楽しいことばかりだと物語は退屈すぎるから、そこに何らかの変化をつけるためには、陳腐なぐらいに辛い演出も必要だったのだ。

 この設定を練り込んでる最中、ひとつ面白いことに気づいた。まったく誰もいない、静まりかえった空っぽの町を丁寧に細部まで想像してみても平気なのだ。小学生のころに「どくさいスイッチ」を読んだときの、あの震え上がるような恐怖や不安が少しも訪れない。中年になった私は、それを感じることができなくなっている。どちらかといえば、むしろ安心に近い感情に包まれている。

 この世界では、もう誰からも評価される心配がない。愛することも愛されることも、憎むことも憎まれることもない。誰かを尊敬したり劣等感に駆られたりする機会もない。自分と比較する対象がない。誰も私を見ていない。私を気に掛ける者はいない。私が誰かを喜ばせることも、傷つけることもない。誰かに何かを期待することもない。たとえ何をしたところで、誰の反応も待たなくていい。反応が得られるのかどうかにも怯えなくていい。誰かに先立たれることもない。

 そこで私は何をするのかというと、自分のためにオムライスを作ったりしている。具を刻んで、先に味をつけて、そのあと冷やご飯と炒め合わせて、最後に卵で包む。出来上がったばかりの、子供の枕みたいな巨大なオムライスをコップ一杯の牛乳と一緒にもぐもぐ食べる。なにしろ妄想なので、一人ぼっちの世界でも冷蔵庫に卵や牛乳が入っているのだ。食べ終えて満腹になったら、恐ろしくレベルの低い駄洒落などを思いついて一人で笑ったりしている。堂々と口に出してみたりもする。なにしろ誰かに聞かれる心配がないから、何も恥ずかしくない。

 その世界をしばらく漂ったあと、ふっとここに帰ってきても、あまり「辛い現実に引き戻されてしまった」と感じない。そもそも何か違いがあるのか? あっちもこっちもほとんど同じではないか。そう思うことができる。今回の妄想はすごい。ただの現実逃避の空間ではない。現実を受け入れやすくするための役割も担っているじゃないか。

 ただ一つだけ、妄想と現実が明らかに異なっている点を挙げるとするなら。誰もいない世界に住んでいるほうの私は「なんとなく文章を書いて、誰かが見ているのかどうかも分からない空間にこっそり置く」といった行為に時間を割いたりしない。この無駄な時間を楽しめるのは、こっちにいるときだけだ。