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いま通っている学校のコースでは、最後に各学生がバラバラの公立学校で2か月間の教育実習をすることになっている。しかし、いきなりカナダの小学校や高校に放り込まれても、何がなんだか分からないことだらけになりそうだ。まともに実習できる気がしない。できれば事前に現場を見ておきたい。そう思ったので、いまは週に一度だけ地元の公立小学校でボランティアをさせてもらっている。

現在の私は、その学校で二つのクラスに参加している。どちらのクラスも面白いのだけれど、特にN氏のクラスが素晴らしい。彼女のクラスは非常に独創的で、なにかとユニークな学習方法を取り入れている。おかげで実習をしているという実感が薄い。自分もクラスの一員になって楽しんでしまう。「私が子供の頃、こういう授業を受けてみたかったものだ」とか、そんなことばかり考えてしまう。この教室で驚かされたことを紹介しはじめるとキリがないのだけれど、ひとつだけ例を挙げたい。

彼女のクラスには5秒の読み上げルールというものがある。たとえばN氏が「あと5秒で机の上に鉛筆を出しましょう。さあカウントして」とか、「あと5秒で全員カーペットの上に集合しましょう。カウントして」とか告げると、生徒たちは一斉に「1, 2, 3, 4, 5!」と掛け声をかけながら指示に従う。そのときの数字の読み上げが英語ではない。日によってスペイン語だったり、ベトナム語だったり、北京語だったり、パンジャブ語だったりする。これらの言語は、クラスにいる「移民の生徒」の母国語だ。だから、いずれの言語でも完璧に喋れる生徒が一人いる。彼らは最後にお手本として、正しい発音で数字を読み上げてくれる。

これが、すこぶる恰好いいのだ。さっきまで「たくさんの生徒のひとり」でしかなかった子供が、とつぜん周囲とは明らかに異なった発音で、ちょっと得意げに、まるで別人のようにウーノとかクアトロとか言い出す。いきなり教室が異国情緒満点になる。大人の私でも無条件に「ひょー、かっこええ」と思うのだから、子供にとっては尚更だろう。

念のために申し上げておくけれど「日本も真似しよう」とか言いたいのではない。「日本にも移民を増やそう」とか言いたいのでもない。そういう話をしたいのではないし、はっきり言えば興味もない。ただ私はN氏の5秒ルールを見て、カナダならではのメリットを活かした面白い試みだなあと感心したのだ。

この習わしのおかげで、N氏のクラスの生徒たちは多様な言語で1から5までを言うことができる。それが将来、彼らの役に立つのかどうかは知らない。しかし10歳に届くか届かないかぐらいの子供にとって、「俺はイタリア語でもベトナム語でも1から5まで数えられるぜ」というのは、さぞかし気持ちのいいことだろうなと想像する。そして何よりも、「その5つの数字をクラスの誰より美しく発音できる生徒」は誇らしい気分になれるだろう。ひょっとすると彼らの一部は、周囲の子供たちと比較したとき英語に少々の訛りがあるかもしれない。そんな生徒がコンプレックスを抱かないためにも、この5秒読み上げは非常に意義深いものなのではないだろうか。

……などと考えたところで、ちょっと心配になったことがあった。ある日の休み時間、N氏に尋ねてみた。

「あなたの5秒読み上げルールに感銘を受けました」
「ありがとう。楽しいでしょう?」
「ええ。しかし、あまりにも恰好よすぎるので心配になりました」
「どういうことですか?」
「最後に美しい発音で数字を読み上げる生徒が、あまりにクールすぎるのです。それができない生徒は、どんな風に思うのかなと。つまり両親も自分もカナダ生まれで、英語しか知らない生徒が『自分は一か国語しか話せない』と劣等感を持ってしまうことはないのでしょうか」
私が尋ねると、N氏は少し驚いたような表情をしたのちに笑顔で答えた。

「ケイ、大事なことを忘れています」
「何でしょう?」
「カナダの公用語は二つあります」
「……おっと。そうでした」
「カナダの全ての市民には、英語とフランス語の両方を話すことが推奨されています。実際のところ、この町でフランス語を話せる市民はほとんどいませんが。『私も英語以外の言葉を喋れるようになりたい』と望む子には、フランス語を学ぶ機会がいくらでもあります。生徒がそれを自発的に学びたがるきっかけになれば、とても良いのではありませんか?」
「なるほど……」
「でも、私はフランス語にこだわらなくていいと思います。英語しか話せない生徒が、他の生徒からいくつかの単語を学ぼうとするなら大成功です。クラスメイトから何かを教わることができるっていうのは、貴重な機会ですからね」
「たしかに」
「そこまで熱心にならなかったとしても、『他の言語を話すのって、どんな感じだろう』と想像してくれれば、それは子供にとって大きな学びです。ただ興味を持ってくれるだけでもいい。あるいは毎日、『複数の言語がある』という事実を単純に実感できるだけでも充分ですね。このクラスの生徒の見た目はバラバラですが、ふだん話している言語が同じなので、それを忘れてしまうかもしれないでしょう? 見た目だけの多様性なんて、それほど意味がないと思いませんか」
「完全に同意します」

ちなみに私も、彼女のクラスでボランティアを開始した日に、日本語で「1、2、3、4、5」を披露させられた。みんなが必死で真似てくれるのは、なかなか良い気分だった。しかし4の読み方を「し」してしまったのは失敗だったかもしれない。彼らの中には将来、日本へ遊びに行く子がいるかもしれないのだ。日本で切符を買うとき、電車の路線番号を読むとき、お金を払うときに、4を「し」で覚えているのは不利だろう。やはり「よん」のほうを教えるべきだったような気がする。