
長い前置き
私は藤井風のファンではなかった。というより二週間前まで藤井風のことをほとんど何も知らなかったし、いまでもあまりよく知らない。
この十五年間はカナダと台湾に住んでいたので、私はほぼ全くと言ってよいほど日本の音楽には触れてこなかった。それでも少しずつ漏れ伝わる情報から、藤井風という人が「若くて才能があり、紅白歌合戦にも出場しているミュージシャンだ」ということぐらいはボンヤリ認識していた。あと、たまたま彼の出ている短いCMのような動画を見たことがある。そのときは「柔らかい声で、さらりと上手に歌い上げる、歌唱力と好感度の高いイケメン」という印象を持った。
つまり私にとって藤井風という人は、いちばん興味のわかない、自分とは全く相容れないタイプのミュージシャンというイメージだった。私は音楽であれ絵であれ映画であれ、アクの強いものや個性のキツすぎるもの、自己完結しすぎてて理解されづらいもの、頑張りがうるさいもの、ひねくれているもの、ワケが分からないもの、あまりにも本気すぎてこっちが疲れるもの、なんとなく気持ち悪いもの、それでいて(だからこそ)素晴らしいものを偏愛する傾向がある。だから「とても無難な若いイケメン」に見えた藤井風を、わざわざ自分の意思で聞こうとは少しも思わなかった。
しかし一年ぐらい前からだろうか。適当にアジア発の動画をダラダラと見つづけていた頃、映像のBGMでちょいちょい「死ぬのがいいわ」を聞く機会があった。この曲は歌詞もメロディも不思議だ。そのうえ「日本語を聞くとは想定してなかった状況で、とつぜん耳に飛び込んでくる日本語の歌」だったので、異常なほど耳に残った。さらに自分がギリギリ出せる最低音から最高音まで一ミリの余裕もなく使い果たすような音域の曲でもあったため、痛いほどカラオケ欲を刺激された。ともあれ、この曲で私は「ああ、藤井風ってこういう感じだったのか。想像してたのとは違ったな。なるほど」と認識した。
そして今年六月の終わり。もうすぐ夏休みの一時帰国をする時期になり、日本でのカラオケに備えて「死ぬのがいいわ」を覚えたいと思って検索をしていた私は、たまたまこの曲が恋愛の歌でないことを知る。どうやらこれは「理想の自分を追いたい」という意図で作詞されたらしい。つまり恋愛体質の人が「あなたがいないと生きていけないの」と甘えている歌ではなく、自分の理想像にしがみついていたい人が「誘惑に負けてダサい生き方をするぐらいなら死んだほうがいい」と言い放っているという、とてつもなくストイックな内容の歌だと理解した。しかも、この人は自分がベジタリアンであることを公表しており、その動機として「動物愛」を掲げていた。だったら、この歌で繰り返される「三度のメシよりあんたがいい」という発言は「一日三度の食事で快楽を得るよりも、私は動物を傷つけない自分がいい、そうでなければ死んだほうがマシだ」と啖呵を切っているようにも聞こえてしまうじゃないか。
ちょっと待ってくれ。草食率が極端に低い日本人では、ヴィーガンやベジタリアンが「偽善者のお花畑ちゃん」のように嫌われやすい傾向があるだろう。それを私はさんざん目の当たりにしてきたぞ。まして「動物が可哀相」という動機は、とりわけ馬鹿にされて攻撃の対象になりやすいやつだ。それでも構わないのか。自分の理想を追求するためなら怖くないとでも言うのか。なんて人だ。若きミュージシャンでありながら、こんなに角が立つことを堂々と言える勇敢な日本人がいたなんて。しかも満面の笑顔で歌ってるぞ。この人は少しも無難なミュージシャンなんかじゃない。下手すりゃモリッシーより面倒くさい人かもしれない。そしてたぶん、かなりの変人だ。そうに違いない。
というわけで「死ぬのがいいわ」に対する興味を一気に深めた私は、それを何度もリピート再生した。聞けば聞くほど美しく斬新なのに、どこか懐かしくて不思議な曲だ。なるほどなあ。これは良いなあ。そう思いながら歌詞を見ていた私は、その曲が数年前にリリースされていたという事実を知る。そうか、新曲じゃなかったのか。じゃあ藤井風のいちばん新しい曲ってどんなものなんだろう。おや、二週間前に出たばかりの曲がある。Hachiko? ハチ公のこと? 気になるなあ、どれどれ。そんな軽い気持ちで、私はHachikoのプロモーションビデオをYouTubeで再生してしまった。それは、私が日本へ向かう前日の23時頃だった。
一度目の鑑賞で、私はぶん殴られたようなショックを受けた。二度目三度目は、わけが分からないまま狂ったように泣いた。四度目以降は「この作品への理解を深めたい」と思いながら鑑賞した。気が付くと、私のふたつの眼球は「この動画鑑賞の停止を拒否します」と言い始めた。ちょっと待て。私は、いまから五時間後に家を出てバンクーバー国際空港に向かうのだ。出発前に確認しなければならないことはたくさんある。まだパッキングも終わらせてない。そして少しぐらいはフライトの前に寝ておきたいと思っていたのに。なぜ私は藤井風のプロモーションビデオを見ながらバスタオルを抱えてダクダク泣いているのだろう。いかん、もう朝じゃないか。けっきょく一睡もできなかった。それでも支度をしなければ。いやしかし、いまパッキングすると飛行機の中で9時間もHachikoを聞けなくなる。それは困るよ。というわけで私は、パッキングをする前にあわてて楽曲をダウンロード購入していた(そう、私はいまだに音楽のサブスクリプションを憎悪している面倒くさい人間なのだ)。
ここまで私がHachikoに惹きつけられたのには、多くの理由があるのだけれど。中でもひとつ、特大級の理由があった。
私はずっと昔から、それこそ十代の頃から「世間で売れてる曲は、男女の色恋を扱ったものばかりじゃないか」という不満を口に出し続けてきた。もちろん、ラブソング以外のヒット曲も少しは存在している。しかし、それらはせいぜい「家族」「若さ」「友情」を無難かつ平凡に歌ったものか、あるいはコミックソングにばかり偏っているように感じられた。
なぜだ。なぜ動物愛を真面目に歌った名曲がないのだ。メジャーで売れてるミュージシャンが、「俺の犬が可愛すぎてどうしたらいいのか分からないんだ」とか、「こんなに猫が好きなのに猫アレルギーになって死にたいよ」とか歌って世界的に大ヒットしないのは、絶対おかしいだろと。この世の中は狂ってるよと。私はそう言い続けてきた。まさかここにきて、日本人で、しかも「ハチ公」を歌うような若いミュージシャンが出てくるなんて私は想像したこともなかった。つまり、その曲の登場自体があまりに衝撃的だった。
さらに、その珍しいテーマを脇に置いたとしても。
私は「エンターテインメントに全力を捧げた結果、ちょっと意味が分からない感じになってて、だけどちゃんと真面目にやってて滅茶苦茶カッコいい日本のプロモーションビデオ」をこれまでに見たことがなかった。それに近いものは山のようにあるけれど、いずれもどこかで「笑い」の要素を含めることにより、照れ隠しをして逃げているように私には見えていた。
しかし、なんだこれは。まるでレディガガのステージみたいじゃないか。やりたい放題だ。そのうえ少しも逃げてないのが素晴らしすぎる。ガチでわけわかんなくてカッコいい。しかも曲と声がとてもいい。こんなものは10年に一度も見られるものじゃない。ダメだ。もういっそ、今年は一時帰国できなくてもいいから、どうしてもあと一回、あと一回だけ鑑賞させてくれ。私は空港へ向かう三十分前になっても、まだリピート再生を止めることができなかった。
この曲を私が初めて聞いてから、今日でちょうど10日目になる。ここまでの間、私はこの曲を300回以上聞き、プロモーションビデオは120回以上鑑賞した。私にとって藤井風のHachikoというのは、そういう存在である。
ちなみに私は「死ぬのがいいわ」と「Hachiko」以外の藤井風の曲を一曲も知らない。いまは他の曲を聞くような余裕がないし、少しでも時間が余ったらHachikoを聞いてしまうせいだ。もっと正直に言ってしまうと、何度も自分の人生を持っていかれたら困るから、もう他の曲は聞かないようにしようと考えている。
本編・Hachikoのプロモーションビデオに関する私の解釈、あるいは妄想
やたらと前置きが長くなってしまったけれど。ようやくここから「Hachiko」のプロモーションビデオに関する私の解釈を述べさせていただきたい。あくまでも「すでに鑑賞済みの人(できれば10回ぐらいは見てる人)」に向けて書いたものなので、ネタバレが全開になっている。まだ見たことのない人は読まないほうがいいという点を先に記しておこう。
まずは三人の主要な登場人物について。
・黒い藤井風…ハチ(あるいはハチの化身、ハチの魂など)
・白い藤井風…すでに天界の人となっているハチの飼い主(つまり没後の上野教授、あるいは上野教授の魂など)
・ダボっとしたグレーの服の藤井風…現世の人間(あるいは語り部、藤井風本人)
この解釈に異論を唱える人は、あまりいないのではないかと思う。少なくとも黒い藤井風は、何をどう考えたってハチ(あるいはハチのメタファ的な何か)だ。なにしろ「Hachiko」というタイトルの曲で、犬の耳と尾がついたボディスーツを着ていて、さらに藤井風の表情が「完全に犬そのもの」なのだから、どこにも疑いの余地がない。立ち耳バージョンも垂れ耳バージョンも、おそらくは単に可愛いから複数のパターンがあるだけで、いずれもハチだと考えて問題ないだろう。実際のところ、若いころのハチは両耳が立っていて、年を取ってからは片耳が垂れ下がるようになっていたのだから、史実と照らし合わせても不自然ではない。(※これは私が幼児の頃、学研のひみつシリーズ「いぬのひみつ」で得た知識に基づいている)
問題は「白い藤井風」をどのように見るかだろう。私はここに、自分なりの解釈を語らせていただきたい。
ド派手な白い藤井風に関する私の解釈
この白い藤井風が、ハチよりも先に死んでしまったハチの飼い主だというところまでは、たぶん間違いない。「ずっと私のことを待っていた君を、もう一人にしない。これから一緒にどこへ行こうか」とハチに語り掛けている張本人だ。その設定に不自然な点は何もない。
しかし、彼の見た目が大問題なのだ。
彼のド派手でエキセントリックな装いは、「大正時代、講義の最中に亡くなった東京帝国大学の農学教授」のイメージから掛け離れすぎている。通常であれば、ここは和風の白装束を着た学者風のおじさんが登場するところだろう。ならば彼は上野教授ではないのか? いや、他の天界の人だったとしても、やはり派手すぎる。どのような宗教を背景に置いても、天に召された人が全員こんなにゴテゴテしたものを着ているとは考え難い。特に背中のデカい輪っか。こんなの背負ってたら、死者たちは肩を並べることもできないし、仰向けに寝転がるのも困難だろう。あと、うっかり周りの人に刺さりそうで危ないよ。
というわけで私は一つの仮説を立てた。
おそらく、このプロモーションビデオは「死んだ人間が神になりうる世界、とりわけ下界で徳を積んだり知恵を広めたりした人間は、それだけ高級な神にならざるを得ない世界」を舞台としているのではないかと。つまり上野教授は、亡くなったあとの世界で神になったという仮説だ。

彼が着ているレディ・ガガのドレスみたいな銀と白のコスチュームは、あからさまに「雨・風・雷・雲」あたりをモチーフとしたデザインになっている(と私は思う)。また、彼が真っすぐに歩いていく細長い通路にも、空を想起させるような青と白の集中線が走っている。これらの要素から推察するに、おそらく没後の上野教授は、風雨を司るタイプの気象神──たとえば風神や雷神のような存在で、神羅万象を扱うメンバの一人、天界においても特級クラスのVIP神──になってしまったのではないかと思われる。大地と動物を愛し、関東大震災後の帝都復興に貢献した立派な大学教授が、亡くなったあと「そういう神」になったとしても、さほど無茶ではないだろう。
この気象神バージョンの上野教授のことを、この場ではいったん「雷神教授」と呼ばせていただくことにしたい。ここから先は私が考えた「雷神教授と、下界でも天界でも彼に愛されたハチ」の物語である。
〇気象神の引退と反逆
この天界では通常、死んだ人間と、その人間に愛された動物はふたたび一緒に暮らせる。俗に「虹の橋」と呼ばれるものを一緒に渡ったあとの彼らは、花が咲き乱れる美しい楽園で、一日中きゃっきゃうふふしている。だから雷神教授も、ハチが天に召されたときは自分と一緒に暮らせるのだと完全に思い込んでいた。
しかし、そろそろハチの寿命が近づいてきたというタイミングで、彼は同僚の先輩(他のVIP神)たちから無慈悲なルールを突き付けられる。神羅万象を司る神々のゾーンの住人は、そこに動物を連れてきてはいけないと。つまり雷神教授は天界でハチと暮らすことが許されていない、というのだ。
「いや……冗談ですよね?」
「そういう規則だから」
「いやいや、まさか。皆さんは誤解なさっているのでしょう。私のハチというのは、あのハチ公のことです。ハチ公ですよ? 渋谷駅で10年も私を待ち続けた、あの伝説の犬です。このあと下界では渋谷の駅前に彼の銅像が建てられ、それはやがて有名な待ち合わせスポットとなり、さらに日本を代表する国際的なランドマークになるのです。そして映画では松方弘樹やリチャードギアが私の役を」
「気の毒だとは思う。しかし、いまの君は天候を司る神だ。一日中、花畑で犬とゴロゴロ寝ていられる一般の天界人とは事情が違うのだよ」
「お待ちください。どうかお聞きください。これからも私は気候の神を懸命に務める所存です。ハチも私の邪魔をするような愚かな犬ではありません。私はこれまでどおり、全身全霊で天地の平和を追求し、全ての生命を慈しみながら天候を司りましょう。ただ私の隣に、たった一匹の相棒を置くことだけ、それだけを許可していただきたいと」
「忠実な相棒だからって、自分の犬をオペ室に連れてくる外科医がいるのか?」
「……」
「君にも分かるはずだ。二十四時間体制で神羅万象を管理する我々が、一瞬でも犬の肉球や猫の後頭部にうつつを抜かせば、下界は大変なことになりかねない。動物がいれば、いつか必ず我々の業務に悪影響が出るだろう。実際にそうなってからでは遅い。だから、このVIPゾーンには伝統的に『ペット禁止』なのだ」
「そんな馬鹿な!」
「安心したまえ。天国に来たあとのハチは、痛みも苦しみもない楽園で永遠に、幸せに暮らすのだ。ゴミゴミした下品な歓楽街ではなく、美しい緑と花々に囲まれた場所で、美味しいものを好きなだけ食べ、優しい人々に頭を撫でてもらい」
「しかし、そこには肝心の私がいないではありませんか!」
「君たちは住む世界が違うのだ」
「…………なぜこんなことに」
「君が神に選ばれたからだよ。なってしまった以上は仕方ない。君には神としての責任がある」
「しかし」
「これは天界のルールだ。君は10年もここにいて、まだ天界の常識が身についていなかったのか。今後は天界の治安を乱さぬように、しっかりと我々の世界に馴染もうとしてもらわなければ」
「……」
そういったわけで。怒りに震えた雷神教授は「神の引退と天界への反逆」を決意する。
風雨を司る神としての責任、理念、名誉、プライド、10年のキャリア、そこで得られた悟りや知恵、そういったものの全てをハチのために捨てると決めた雷神教授が、これまで尽くしてきた天界を欺いて、愛しいハチと駆け落ちする。Hachiのプロモーションビデオは、その事件を再現したものだと私は解釈する。

〇もう戻らない雷神教授
そう、雷神教授には一点の迷いもなかった。
この10年間の彼は、渋谷駅で自分を待っているハチの姿を見るたびに心を痛めてきたのだ。先に死んでしまって悪かった。申し訳なかった。このあとハチが天界に来たら、そのときは可愛がって可愛がりまくって可愛がりつくしてやろう。「忠犬ハチ公」のブランドイメージが弱まるほどに、むしろ「天界史上、最も甘やかされた犬」として誰もが知る存在になるぐらいまで可愛がりたおそうと。彼はそう決めていたのだ。
そのハチがとうとう寿命を迎え、もうすぐ天界へやってくるというのに。あれほど健気に私を待っていた犬が、ここでも私に会えないなんて、この先も永遠に会えないなんて、そんな不条理な話があってたまるかと。ふざけんなと。バカじゃねえのかと。もはや雷神教授は、神などやってられるような心境ではなかった。たとえ何があろうとも、今度こそ私はハチを放さない。雷神教授がそう決断するのは当然の成り行きだった。
とはいえ天候を司る高級神が、「犬を飼うので辞めます」と辞表を出して受理されるはずもない。めちゃくちゃ叱られるだけだろう。なにしろ彼が気象の政を放棄すれば、天界も下界も混乱しかねない。しかしブチ切れてしまった雷神教授にとって、そんなことはクソほどどうでもよかった。もはや彼の頭の中は「ハチのためなら何でもできる」という考えでいっぱいだ。実際に彼は二番の歌詞で「Went through everything to reach you(君に会うために、あらゆることをした)」と語っている。
彼は「I’m going through everything to reach you(君に会うためなら、どんなことでもしよう)」と宣言しているのではない。過去形で「どんなことでもしてきた」と報告している。つまり雷神教授は、もう再会の支障となる全ての問題を解決したあとの状態だ。だからこそ彼は、映像の冒頭から希望と自信に満ちあふれた表情を浮かべている。厄介な宿題をすべて済ませたあとの顔だ。
雷神教授は、青と白の通路をまっすぐに歩いていく。その一歩一歩がハチとの再会までの道のりである。彼はもう二度と神々の世界へ戻るつもりがない。ここから先は働きもせず、ハチと二人で未来永劫、ひたすらチルチルにいちゃいちゃと暮らすつもりなのだ、さあ準備は整った。これからハチをどこへ連れて行こう。ハチに何をあげよう。でもハチに必要なのは私だけだったりしちゃうのよ、これが。いやーもう参っちゃうよねえ(と冒頭から彼は歌っている。やや誇張のある翻訳だが)。
雷神教授はニヤニヤした顔で歩いていく。とんでもないことをやらかした、という自覚はもちろんあった。それでも彼は完全に浮かれていた。だってもう、他のことなんかどうでもいいんだもん。私は今後、天が荒れようと地が割れようと、世界中が阿鼻叫喚の大騒ぎになろうと、ただハチと毛布にくるまって、ハチの分厚い耳をつつきながら、「あの人たちも、僕たちと同じぐらい平和だったらいいのにね。ねええー、ハチぃー?」なんてことを他人事みたいに言ったりするのだ(と彼は続けて歌っている。かなりの意訳であることは否めないが)。
つまりこれが、やたら嬉しげに青と白の通路を勇ましく歩いているときの、白い藤井風の正体である。あえて断言してみた。

歌詞の三行目でノロけ出す雷神教授。
どう見ても完全に浮かれている。

〇「Everything」の内容(駆け落ちのシナリオ)
さて雷神教授は、神を引退してハチと暮らすためにどのような困難を乗り越えてきたのか。もちろん「役所で大量の書類に記入した」とか、「他の皆さんに延々と退職の挨拶回りをした」とか、そういう困難ではない。なにしろ彼は、天を欺いて犬と駆け落ちするための壮大な計画を遂行しなければならなかったのだから。
たとえば「明日はハチが天国に着くので、どうか一日だけお暇をください」と土下座をし、天国の入り口でハチを迎えることが許されたとしても、そのまま二人で逃亡するのは不可能だ。なにしろ雷神教授は、あまりにも派手で目立ちすぎる。さらにハチも国際的に知られたアイドル犬だ。彼らの再会シーンを見たがる天界人の群衆が、虹の橋のたもとに集まってしまうだろう。フジロックフェスどころか、ワールドカップぐらいの集客力をもったイベントになってしまうかもしれない。そして神羅万象を司る神々(雷神教授の同僚たち)は天界を見通すことができるので、いつでも二人の居所をつきとめることができる。このような状況では、ハチを連れて逃げ回れない。つまり雷神教授は、同僚にバレないまま高級神の世界から抜け出し、誰にも見つからない場所へハチを連れて行く必要があった。
具体的には何をしたのか。
まず彼は、自分とハチが暮らすための新しい空間を天界に創造してしまった。
駆け落ちしたカップルが、寂れた地方都市を目指すのとはワケが違うのだ。雷神教授の場合、他の神々が知らない場所、まだ存在していない場所、どんな追っ手も来られない場所、そしてハチの夢を何でも叶えてやれる場所として、逃避行先の新天地を自分でゼロから作りあげてしまった。さすがは神だよね。でも、ちょっと狂ってるぞ。

「ふたりの楽園が無いのなら、最初から作ればいいのです」
さらに彼は、神聖な侵されざるVIPの神々ゾーン(ペット禁止)と、自分が作ったばかりの空間をつなぐ隠し通路をぶち抜き、無許可のまま脱出できるようにしてしまった。「いつのまにか雷神教授が消えている。誰も彼の逃亡に気づかなかった。そして彼がどこにいるのか誰にも分からない」という状況を作るなら、ちゃんとした手続きを経て正規のルートから外に出るよりも、直通のループホールを作るほうが安全だもんね。

まあ、脱獄には抜け穴がつきものだよね。
つまり雷神教授は、神に与えられた特殊能力を使って、自分とハチの幸せだけのために好き放題をやらかしてしまった。あるまじき職権乱用だ。しかし、これまでさんざん尽くしてきた職場から、けんもほろろに「犬を連れ込むな」と言われてしまった雷神教授には、もはや神としてのプロフェッショナル倫理など存在していなかった。
これほどの重罪を重ねるために、おそらく雷神教授がなんらかの闇取引的な契約にまで手を染めてきたのであろうことは容易に想像できる。ひょっとすると、雷神教授が金髪なのに黒い口ひげと顎ひげ、さらにサングラスという「あまり神々しくない、ややチンピラくさくも見えるような、ちょっとワルそうな装い」になっているのは、裏社会の悪い人たちと交流しているうちに影響を受けてしまったせいなのかもしれない。
一方、何も知らないハチは砂漠のようなステージにいた。彼は受難の真っ最中だった。
〇天界のステージ
ちょっと話がややこしくなってしまったので、ここでいったん状況を整理しながら背景を図解したい。私が考える「この物語の世界」は以下のようになる。
◆超図解:天界マップ(ぜんぶ妄想)

では、それぞれのステージを以下に解説しよう。
・ゾーンA:VIP神のステージ(PVには出てこない)
天界のさらに上部にある「VIP神の住処」。つまり神羅万象を司る神々が暮らしているステージだ。雷神教授は10年間、ここで天候神としての仕事に没頭してきた。天界においても特に侵されざる領域なので、自由に出入りすることはできない。ペット禁止。
・ゾーンB:青白の集中線ステージ

雷神教授が嬉しそうに歩いていく通路。雷神教授の全身像が頭上からお披露目されるシーン(もう、ここ、ほんとカッコよすぎて意味わかんなくなって泣いちゃうんだよ)のステージでもある。
この青白の集中線が走るステージBは、ゾーンAからゾーンCへ抜けるための隠し通路、雷神教授が無茶をして開通したループホールだ。ここを歩きはじめたときの雷神教授、つまりゾーンAを出たばかりの彼は、まだサングラスをかけており、背中に馬鹿でかい銀色の輪っかを背負っている。この点は重要なので、ちゃんと書いておこう。
・ゾーンC:白黒モザイクステージ
雷神教授がハチとの再会を果たす場所。みんなの大好きな再会シーンのステージ。
ハチと自分が暮らすために、雷神教授がゼロから創造した天界の裏ステージだ。「どこにでも連れていくし、何だってあげる」という約束を叶えるための場所なので、「約束の地」と呼んでもよいだろう。
このステージの床が白黒の幾何学模様になっているのには、理由がある。
通常、私たちの想像する楽園には花が咲き乱れ、小鳥が鳴いてているだろう。しかし、この楽園はまだ何もない、まっさらのブランクだ。雷神教授は、背景レイヤーすら設定されていないモノトーンの幾何学模様(これは下界のPhotoshopの透明背景に該当するものだろう)の空間で、ハチの望むものだけを揃えようとしている。
(ちなみに雷神教授の発声は異常にシルキーで柔らかいのだが、「Everywhere」や「Anything」といった単語は少々しつこいめの発音で歌う。無理もない。彼は本当に、ハチの行きたい場所や欲しいものばかりを「片っ端から何でも」置くために、完全に無の世界を準備したのだから)

この場所には、花や小鳥や青空さえも邪魔だった。そんなありきたりな天国のイメージの背景など、ハチには不要だ。本当は雷神教授だって、ハチに似合いそうな犬用のベッドや、かっこいいフリスビーを準備したかったけど、それすらも置かなかった。とにかくここは、ハチを喜ばせるためだけに作った場所なのだ。ハチの意向を聞くまでは、まっさらのままで我慢しようじゃないか。
このゾーンCには今後、ハチが見たかったもの、行きたかった場所だけがどんどん追加される。穴掘りに最適な浜辺や、泥遊びに向いている水たまりや、ふかふかした雪の降る庭が置かれるのかもしれない。あるいは大正時代の渋谷の街並みが再現され、そのうちの一軒の居酒屋には雷神教授とハチが通うのかもしれない。そいつは見てみたいね。きっと最高だろうさ。
・ゾーンD:絶望の間
誰もいない砂漠のような空間。雷神教授と再会する前のハチが、身体の自由を奪われながら苦しんだり、ふてくされた顔で座ったりしている場所。昼は灼熱の太陽に晒され、非常に暑そうだ(夜はそれほど大変でもなさそう)。

このゾーンDについては様々な解釈をする人がいるだろう。私は、「すっかり年老いたハチがさまよった生と死の狭間」を比喩的に表現した空間であるのと同時に、「いつまで待っても来ない上野教授を10年も待って疲れ果てたハチの精神世界(死んだあともそこから抜け出せなくなった)」であると仮定しよう。
基本的には、これらの四つのゾーンが物語の舞台となっている。
実はこのあと、さらに二つのステージが登場するのだが、これらについては後述とさせていただきたい。
〇ハチ、成仏失敗
先述のとおり、雷神教授はハチと駆け落ちするための準備を完璧に整えたはずだった。あとはハチが天国に到着した瞬間、自分が待つゾーンC(約束の地)へハチを転送するだけ。そう考えていた。
しかしハチが寿命を迎えたとき、まったく予想外の問題が発生してしまう。あまりにも長い間、来るはずのない上野教授を待ち続けてきたハチは、「あんなに待ったのに、けっきょく最後までご主人に会えなかった」という悲しみの中で命を終えていた。すっかり心が乾ききった瞬間に、未練たっぷりのまま生涯を閉じたハチは、仏教でいうところの成仏を遂げられず、天界と下界の狭間にある「絶望の間」に入り込んでしまったのだ。つまりハチは一般のペットのように、天界の虹のたもとへ来ることができなかった。あんなに辛抱強かったハチだけど、最後の最後で心が折れちゃったんだね。

絶望の間に囚われたハチは、老いた肉体の痛みや喉の乾きに苛まれながら、ひたすら絶望し、一人でふてくされている。神々のステージからまんまと抜け出したあと「勝ったも同然」のつもりで通路を歩いてきた雷神教授は、絶望の間にいるハチの姿を見て呆然とした。いったい何が起きているのだ。私たちの幸せはすぐそこなのに。どうしてハチはこんなところにいるのだと。あんなにかっこいい雷神教授にも、意外と抜けてるところがあるんだね。
雷神教授はハチを迎えに行くため、自らを絶望の間へ転送しようと考えた。しかし、そこは天界の下だ。本来は彼が往来できるような場所ではない。しかし雷神教授は神力を注ぎこみ、どうにか絶望の間にたどり着く。やった。着いた。砂の中で大喜びする雷神教授。
しかし、そこにハチはいなかった。彼が辿り着いた絶望の間は、あくまでも「雷神教授の精神サイド」で、いまハチがいるのは同じ絶望の間の「ハチの精神サイド」だったのだ。この二つは、同じ場所だがパラレルワールドになっている。
やはり、そこからハチが出るためには、彼自身が絶望から這い上がるしかないようだ。つまりハチはもう一度「ご主人に会いたい」と願う必要がある。しかしハチは疲れ果てていた。完全にフテくされていた。もうハチの心は「最期まで会えなかった」という絶望でいっぱいなのだ。雷神教授が自分の精神サイドから何を語り掛けても、その声はハチの精神サイドに届かない。死の瞬間にハチが抱いた絶望はあまりにも深く、それは巨大なファイアウォールのように二人を隔てている。
〇シンクロできないふたり
途方にくれる雷神教授が、両腕で掴んだ砂をバラバラ落とすと、その砂は両方の精神サイドに舞った。どうやら二つのパラレルワールドの間でも、無機物は共有できるようだ。そのことに気づいた雷神教授は、「下界の渋谷駅と同じ座標になるポイント」にひざまずいた。ここは二人が待ち合わせていた大切な場所なのだ。ハチがここに来れば、きっと習慣のように「私と会えること」を願いながら私を待つだろう。何か他にも目印になるものはないか? 雷神教授はあたりを見回すが、そこは砂と岩ばかりだ。
そのとき教授は、急にあることを思い出す。あ、そういえば私、歩いてるときに、なんか目立つやつを落としてこなかったっけ。


そう。仕事場から抜け出してループホールを闊歩したときの雷神教授は、聖なる気象神の証、つまり背中に背負ってた馬鹿でかい銀色の輪っかを失っていた。彼が天に背いて歩みを進めるうち、それは彼の背中からバラバラと剥がれ落ちたのだ。
(※実際、青白の通路を歩きはじめたときの雷神教授は輪を背負ったままなのだが、ゾーンBの複数のシーンではすでに輪が消えている。そして通路を渡り終えた以降のシーンには、もう輪がない)
あわてて通路へ戻った雷神教授は、その剥がれた欠片を拾う。そしてふたたび絶望の間へ自分を転送すると、渋谷駅までの道しるべを作るように、光る破片を砂へ刺した。そして自分のサングラスを外し、渋谷駅の座標に置く。この破片もサングラスも、生前のハチにとって全く馴染みのないアイテムだ。しかし紛れもなく「雷神教授が身に着けていたグッズ」である。その匂いは、ハチを再び奮い立たせてくれるかもしれない。もしもハチの嗅覚が、まだ少しでも残っているのなら。


そんなことをしているうち、雷神教授は激しい眩暈に襲われはじめた。呼吸もできなくなってきた。天界の最上部の最も神聖なエリアで暮らしてきた彼にとって、「天界と下界の狭にある空間」はあまりにも厳しすぎる環境だったのだ。田園調布の一軒家から蒲田のアパートに引っ越すのは厳しい、みたいなレベルの話ではない。なにしろここは天界の外なので、雷神教授が留まれる場所ではない。来たこと自体が無茶だった。ここはいったん引き上げるしかない。雷神教授はモノクロ床のゾーンC、つまり今日からハチと過ごすはずだった新設ステージに戻る。とにかく彼はここでハチを待つしかないのだ。
その約束の地でも雷神教授は渋谷駅の座標に立ち、そこから「絶望の間」にテレパシーを送ることにした。できるだけ分かりやすくなるように、母音のバリエーションを少なくして、短い言葉にしよう。彼は「ド」「コ」「ニ」「イ」「コ」「ハ」「チ」「コ」という二母音八文字のフレーズを何度も繰り返し絶望の間へ送り込んだ。「どこに行こう?」というのは、生前の上野教授がハチに語り掛けていた言葉だったのだ(念のために記しておくが、そのような史実はない)。
しかし、その音が雷神教授の柔らかい肉声のままハチに届くことはなかった。絶望の間のファイアウォールが、神からの交信を遮断しようと試みるからだ。彼の送ったメッセージは、まるで日本語を話せない外国人がカタコトの日本語で話したときのような声、いや、それを電子音っぽく加工したような音に変換されてしまう。それが教授の発したメッセージだと分からないハチは、謎の音声から「どこに行こう」などと延々と語り掛けられても、「どこに行けばいいのか、こっちが知りたいんじゃ」みたいな気分になって、さらに不貞腐れる始末である。

雷神教授は嘆くしかなかった。私にできることは何もないのか。もうハチは疲れ果てたように横たわって動かなくなってしまった。ようやく私に会えるというのに、もう渋谷を目指そうともしていない。なぜだ。あの子は毎日、ここに来ていたじゃないか。あと一回、本当にあと一回だけ、いつものようにここで私との再会を願ってくれれば、あの子は絶望の間から抜け出せるのに。誰かハチを助けてくれる人はいないのか。誰か。

全ての計画を一人だけで進めてきた雷神教授は、このとき初めて「下界の助け」を借りることを思いつく。
〇ネバ―エンディング渋谷

そして舞台は2025年、ハチが生涯を終えてから90年後の日本。
世界一有名な交差点、渋谷スクランブル交差点の脇にある甘栗屋のカウンターで、一人の日本人男性がぼんやりと空を眺めている。グレーのダボダボした服を着た青年。やっと出てきた三人目のメインキャラクターである。

この人物は「語り部となる藤井風本人のメタファ」なのかもしれないし、あるいは実際に甘栗屋で店番をしている青年役なのかもしれない。どのように解釈するとしても、それは現代の下界の人間と考えて良いだろう。とりあえず、ここでは彼のことを「灰色青年」と呼ぶことにしたい。
それはとても暖かい、すこし暑いぐらいの日のことだった。こんな暑い日の昼間に、ホカホカの甘栗を食べたがる人は滅多にいない。そのせいもあって、灰色青年はひたすら何もせずに空を眺めていた。店番としてどうなのかと思うほど彼はボンヤリしていた。徹夜明けで寝不足だったのか、あるいは違法な薬物でガンギマリしていたのかは分からないが、ともあれ彼の意識ははっきりしていて、それでも精神は完全な空白だった。その空っぽの脳に突然、雷神教授の声が響く。
「青年よ。どうか私たちを助けてくれ。甘栗屋の青年よ」
「……え、誰?」
「ああ届いた。よかった、やっと見つかった」
雷神博士は時間の概念を超えて、自分のメッセージが届く下界の人間を探していたのだ。
「渋谷駅の周辺で、完全に放心したまま天を仰いでいる人(なおかつ自分の話を理解できそうな人)」という難しい条件に合った相手を探しまわった雷神教授は、ようやく90年後の世界で灰色青年を見つけた。彼は自分とハチの境遇を分かりやすく説明したうえで、灰色青年に協力を求める。
「……だから灰色の青年よ。あなたの助けが必要なのです」
「いや、なにこれ。どこから声が出てんの」
「簡潔に言いましょう。あなたには『はてしない物語』のバスチアンと同じ役を担っていただきたいのです」
「誰、それ」
「ミヒャエル・エンデを読んでませんか。まあいいでしょう。まずはあなたには、私の話を信じてもらう必要があります。つまり私がいる天上界の存在、そして私とハチの物語をどうか信じてください」
「はあ」
「そして、私たちの物語にあなた自身が参加することで、それを幸せに導いてほしいのです」
「さっぱり分かりませんが、具体的には何をすれば」
「ハチを励ますのです」
「は?」
「どうかハチを励ましてください。『幼ごころの君』に名前をつけたバスチアンと同じように。いま、あなたがいるその場所から、あなたの声で」
「そんなの意味なくない?」
「いまのハチは絶望に押しつぶされて動けません。完全に心を閉ざして、私との再会を願う勇気さえ失っているのです。あなたからハチに『行け』と告げてください」
「なんで自分で言わないの?」
「下界での未練と絶望を引きずったまま、天国にも行こうとしていないハチには、私の声が届かないのです」
「……」
「どうかあなたからハチに『行け』と伝えてください。私の元へ行けと。それだけでいいのです」
ここで雷神教授の声はふつりと切れた。灰色青年の協力が得られなかった場合に備えて、雷神教授は次の協力者候補を探し始めたのだ。しかし、これまでに彼がメッセージを送った相手(わざわざ人だらけのクソ忙しい渋谷駅周辺で、空を仰ぎながら頭を空っぽにしていた人)は、みんな泥酔してたり、ほとんど寝ていたり、かなり痴呆が進んだりしていたので会話が成立しなかった。灰色青年の次に「条件どおりの人」が見つかるのは、さらに百年後、二百年後の世界になるかもしれない。まあ問題は、それまで人類が存続してるかどうかだよね。
一方、雷神教授のメッセージを受け取って気持ち悪くなった灰色青年は、不思議な声の出所を探すようにスクランブル交差点の周辺を歩き回ってみた。いまのはドッキリ企画だろうか。変な宗教の勧誘だろうか。しかし、どこにも取材班は見当たらないし、怪しげなスピーカーもないようだ。さっきのは白昼夢だったのだ。きっと自分は疲れていたのだ。灰色青年は、そう考えようとした。

しかし彼は、あの店にいた自分が「上野教授を名乗る者」の声を聴いたことに、何らかの運命を感じていた。実は大変な犬好きであり、ハチ公のファンでもあった彼は、生前のハチがあの甘栗屋に通っていたことを知っていたのだ(これを書いている私も、例の甘栗屋のことを聞いたことがあったぐらいなので、そんなに無理な話でもないだろう)。
灰色青年は考えた。まったくバカげてはいる。神と犬の駆け落ちとか、隠し通路とか、ワケが分からない。とはいえ、もしも万が一、さっきの話が本当だったら。自分がハチに「行け」と告げるだけで二人は再会できる。それはたいへん素晴らしいことではないのか。ただハチを励ますだけで、自分は「あの伝説の犬を天国で飼い主に会わせたヒーロー」になれるのだ。さっきの話を信じることさえできれば、それは少しも難しくない。じゃあ信じられるのか。いやいや、そんな馬鹿な。でも、もしかしたら。
甘栗屋のカウンターに戻った灰色青年は、あたりを見渡してみた。いったいどこから湧いてきたのかと思うぐらいに大勢の人々が、無表情のままスクランブル交差点を歩いている。しかし彼を見ている人は一人もいなかった。どうせ誰も見てないじゃないか。だったら何も恥ずかしいことはないだろう。灰色青年はハチに声をかけてみるべく、口を開こうとした。
しかし「ハチよ、教授のもとへ行きなさい」などと言えば、たちまち「マジで信じてるイタい人」になってしまうような気がした。これは意外と心理的なハードルが高い。結局、恥ずかしくて口を動かせなかった彼は、英語で小さく「Go」とだけ呟いてみた。その「Go」の声は、なぜか灰色青年自身の耳に心地よく響いた。いちど口に出してしまうと、彼は何度もそれを繰り返さずにいられなくなった。その声はハチに命令しているというよりも、ハチが雷神教授のもとへ行けることを祈るような声になっていた。
(つまり私は、この曲で何度も聞こえる控えめな「Go」が灰色青年の声だと考えている。この点には、かなり自信がある。もしも雷神教授の声だとしたら、それは状況的に「Go」ではなく「Come」にならなければならない。そして再会シーンの直前、3分13秒ぐらいのところで一瞬だけ映り込み、真正面から「Go」と言っているときの藤井風は灰色青年の恰好をしている)

(実際に群衆の中で試せば分かる。一音だけでも発することができた彼は、すごく頑張った)
〇再会と打ち上げのダンス
あとは説明するまでもないだろう。
真下から響いてきた灰色青年の声に促され、なんとなく身を起こしたハチは、砂に刺さった金属片から懐かしい匂いが微かに漂っていることに気づく。そのときハチは「ずっと聞こえている八文字のメッセージ」の意味について考える。ほんの少しだけ、何かに期待してしまいたくなる。
とにかく体が動くかぎり、自分はあの人を迎えに行かなければならないのだ。
そんな本能めいた衝動に突き動かされたハチは、余力を振りしぼって地を這うように進みはじめる。いつも自分が通っていた「あの場所」まで辿り着くと、そこには一度も見たことのないサングラスが置かれていた。呆けたように座り込むハチ。なんだかよく分からないけど、大好きな人の匂いが強くなったので、ハチはほんのり嬉しくなる。そのまま夜が暮れていく。そろそろ上野博士が渋谷駅から出てくる時間だ。



そして薄闇の中に光った雷(たぶん雷神教授から送られたサインだろう)に照らされたハチは、「もう一度、ご主人に会いたい」と強く願う。

それを願うことで、ハチはどうにか絶望から這いあがることができた。たちまち「約束の地」へと転送されるハチ。そこには、自分に向かって両手を広げている雷神教授の姿があった。

「ほぉーら、お前さんの大好きなご主人が来ちゃったよー?」とか言いながら犬に近づいていくときの飼い主にしか見えない。
3分15秒の後半あたりなので、頑張って全画面表示で一時停止して見てほしい。



このときのハチの顔は「ずっと会いたかった飼い主に会えたときの犬を成人男性が演じた顔」として満点だし、これ以外の正解はどこにもないと思うから、もう誰も真似しなくていいよ。
というわけでフィナーレ。
今後の楽しい日々を想像しながら浮かれるふたりと、その再会に貢献できた現世の犬好き青年が、勢いでいろんなステージを縦横無尽に移動しつつ「駆け落ち成功の打ち上げダンス」を踊る。これにて彼らの物語はハッピーエンドということになる。


しかし私は、もう一人の重要な存在について、ここまで全く説明してこなかった。つまり四人目の藤井風だ。彼が着ている衣装は白でも黒でもグレーでもない。というより何も着ていない。その人物はいま目を細めて三人のダンスを眺めている。
実は彼こそ、全てを見渡すことができる天上天下のボス。そう、あの、おそらく解釈が最も難解な「バスタブの藤井風」である。
〇四人目の藤井風、ゼウさん
この天界には、一般の天界人たちのはるか上に、神羅万象を司る神々がいる。しかし、その神々のさらに上のステージにも、天地の全てを完全に掌握できる「全能の主神」がいるのだ。雷神教授ですら「God」と呼ぶ唯一の存在。それがバスタブの中から起き上がる藤井風である。ギリシア神話でいうところのゼウス的な存在なので、ここでは「ゼウさん」と呼ばせていただくことにしよう。
◆超図解:天界マップ 完全版(もちろん妄想)

たいへん気さくでおおらかな性格のゼウさんは普段、神羅万象の神々に全ての政を任せっぱなしにして、自分はバスタブの中でのんびりと寝ている。まるで巨大ナマズのように、バスタブの床に張り付いたまま動かない。まあ、大きな組織のいちばん偉い人って、これぐらいがいいのかもしれないよね。イーロン・マスクみたいなのは困るもんね。
そんなゼウさんでも、雷神教授が天界に新しいステージを創造したり、VIP神ゾーンに抜け道をぶち抜いて逃げ出したりしたときは、さすがに「天変地異」を察知してヌルリと起き上がるしかなかった。やれやれ、久しぶりに私が怒らなきゃならないのか。やだなあ。ゼウさんはそう思った。私が怒ると、すげえいっぱい人が死ぬからやだなあ。

しかし全ての出来事を一瞬にして悟ったゼウさんは「ああ、そういうことね」と納得し、あっさりと雷神教授を許してしまう。むしろ祝福してあげたいなあと思う。だって俺も犬が好きだし。どう考えたってハチは特別待遇で良かったじゃん。誰がペット禁止とか言い出したのさ。なんなら、ハチを採用するために「忍耐の神」とか「可愛さの神」とか新規の神枠を作ってもよかったぐらいだよ。あいつら頭が固すぎるんじゃないの。もっと柔軟に対応しなきゃダメだよね。あんな言い方でハチを門前払いしたのも、すごく感じ悪かったもん。あれじゃあ失踪されても仕方ないわ。そりゃ気象神が急にいなくなったら、しばらく下界は混乱するだろうけど、異常気象なんてちょいちょい起こるもんだし。
だいたいさ。ハチは教授のこと好きすぎじゃん。それで教授もああいう人じゃん。もう探さないほうがいいよ。あの子たち、引き離されそうになったら心中しかねないもん。いくら「辞めた」っつっても、昨日まで気象神だった人が自害なんかしたら最悪だお。ハリケーンとか洪水とか土砂崩れとか、気象関係の天災ぜんぶいっぺんに来るよ。下界で何千万人も死ぬけどいいの? あとハチなんか死なせたらさ、それこそ天界の犬好きが全員発狂して暴動が起きるよ。「ハチを殺した神々を許すな!」とかプラカード書かれてさ。そんな天国、誰も行きたくないって。もう、あの子たちのことは放っといてあげなさい。
そしてゼウさんはバスタブの中から、しみじみと三人の打ち上げダンスを眺める。なんか可愛くていいなあと思う。あのさあ、いま誰かヒマな人いる? ああキミ、ちょっとさ、このダンス撮影しといて。次のイベントで上映しよう。「あのハチ公と上野教授は、いま天国で幸せに暮らしてる」ってのが天界で伝わって、みんななんとなく嬉しい気分でハッピーになれたら素敵じゃないのさ。たぶん流行るよ、このダンス。
ついでに下界にも教えてあげなさい。この三人の話が絵本か何かになったら、読んだ人もハッピーになるでしょ。いま踊ってる灰色のお兄ちゃんとか、語り部としてどうなの? 使えそう? ちょっと身辺調査してよ。あらまあ、めちゃくちゃ歌のうまい子だったのね。それだったら歌にしてもらったほうがいいんじゃない。せっかくだから歌詞も英語にしちゃって、なるべく大勢の下界人に分かるようにしてもらうってのはどう?
はい決まり。主神が決めたんだから、ここまでぜんぶ決定でーす。こっちはせっかく起きたんだから、あとはしっかり頼みましたよ。もしも雷神教授の指名手配とか出てたら解除しといて。ああ、あと、このお兄ちゃんが渋谷の甘栗屋に戻ったら、レコーディングの交渉しておいて。それと後任の気象神のスカウトも始めちゃってくれる? なるはやでお願いね。まあ、そんなとこ?
そしてゼウさんはバスタブのふちに両足をひっかけると、ふたたび惰眠を貪るために水の中へと沈んでいくのだった。なんか、すごくいい人だよね。実際、バスタブの中にいるときの藤井風がいちばん「いい人」っぽい顔してるもんね。

あんまりにも長いこと脳みそを乗っ取られすぎてて、もうグラングランだよ。
〇雷神教授のバクチ
さて今回のゼウさんの判断は、実は雷神教授が最初から狙っていたとおりのものだった。いや、さすがにそれは無理があるでしょうと思われるかもしれないけれど。そういう解釈をすると、とたんに歌詞の内容が自然になるのだから仕方ないのだ。
たしかに雷神教授は、ハチのために全てを投げ出して天に背いた。しかし、それでもさすがは神に選ばれた男だ。どんなに天地を憎もうとしても、やはり彼は心のどこかで、自分が逃げたあとの世界も平和であることを願っていた。それと同時に彼は「天界も下界も、規則とか責任とか言いながらピリピリするより、みんな穏やかに優しくなるほうがいいのになあ。ここは犬の来る場所じゃないとか、風紀が乱れるとか言ってる人たち、ぜんぜん幸せそうじゃないし。もっと広い心で暮らせないのかなあ」と。そうも願っていた。
ハチとの駆け落ちは、間違いなく神々を激怒させる反逆行為だ。しかし雷神教授は「ゼウさんなら私を許し、私の同僚を説得してくださるのではないか」と考えていた。きっとゼウさんは「いいんじゃない?」とか言うだろう。「みんなも目くじら立ててばかりいないで、もっと大らかになりなさい」とか言うだろう。そして私の反逆行為すら「みんなが嬉しくなる可愛らしい話」と捉えかねない。「この子たちの幸せそうな姿を見て、みんなもハッピーになりなさい」ぐらいのことを言いそうだ。あの人はそういうキャラだからと。つまり雷神教授は、最初からゼウさんの温厚さと寛大さに期待していたのだ。
自分の引退で天地を混乱させかねない雷神教授が、通路を歩きながら「While everybody’s screamin’ shoutin’/We’re so chill out here just vibin’/Tryin’ to spread this peacefulness with y’all」(みんなが叫んだり喚いたりしてるときに/私たちはここで思いっきりくつろいで/この穏やかな幸せをみんなと共有しようとしてるんだ)とヘラヘラ言い放ったり、あるいは自分が天界を裏切っておきながら「let God bless us all(みんなで神様に祝福してもらおう)」などとすっとぼけたことを言ったりしてるのは、あれは皮肉でも挑発でもなく文字どおりの意味だった。つまり雷神教授は、結果として全ての賭けに勝ったことになるんだ。ちょっとすごいよね。
こうして無事に気象神を引退し、最愛のハチとの生活を手に入れた雷神教授は、「可愛い犬とのんびりいちゃいちゃ暮らすことで、みんなに穏やかな幸せを巻き散らす『犬連れのチル神(フリーランス)』」になったのでした。めでたしめでたし。
あれだよね。あまりにも前向きすぎるオチってどうかと思うけど、なにしろ出てくるのがハチだからさ。どうにか幸せになってほしい犬じゃん。あの子が教授と一緒にいられたら、あとのことはわりとどうでもいいよね。それでみんなもハッピーになろうよ。
〇最後に
この解釈は「Hachikoのプロモーションビデオで、私が目視できた全てのシーン(サブリミナル広告のように数フレームで差し込まれた映像を含めて)と、同曲の歌詞との辻褄を合わせようとした結果」だ。どのシーン、どのフレーズにも矛盾が生じないよう、おそらくは病的な何かに憑りつかれて書いている。
たとえば砂漠のシーンは、もともと「死の直前で、苦しみと寂しさに苛まれているハチの精神世界→ここを抜け出せば雷神教授に会える」という説明だけで終わらせたかった。しかし雷神教授は「ハチのいない砂漠」に何度か足を踏み入れており、そこでサングラスを外したり、憂いの表情を見せたり、あるいは喜んだりもしているので困ってしまった。特に「(3分43秒、3分47秒あたりで)雷神教授が大喜びしている理由」が分からず、さんざん悩んだあと、私はゾーンDのパラレルワールドを作って「自分の転送に成功した雷神教授」の姿を描くしかなかった。あとになって「ただ単に再会後の喜びを表現したイメージ映像なのではないか」とも思ったんだけど、もう軌道修正が効かないところまできてしまった。ただのイメージ映像ということにしてしまうと、今度は雷神教授がそこにサングラスを置けた理由、およびサングラスを発見したときのハチが少しボンヤリしていた理由の辻褄が合わなくなってしまうのだ。
その一方で、「こう考えるほうが自然だけど、私の望まない解釈だ」と思ったルートは執拗に避けている。たとえば最初と最後の渋谷スクランブル交差点のシーン。あれは「ここからここまでのすべてが、灰色青年の脳内だけで起きていたこと(妄想/白昼夢)でした」と考えるのがいちばん自然だと思う。しかし私としては、どうしても夢オチになってほしくなかった。あの素晴らしすぎる抱擁も、三人の可愛いダンスも「ぜんぶ妄想でした」では残酷すぎる。それだと生きるのがイヤになっちゃうよ。そう思ったのだから仕方ない。
こんな具合で話を紡いでいたら、アホほど文章が長くなった。このままだと、あと何年かけても終わりそうにないと判断したので、ここまでを「2025年7月15日時点での解釈」として終わらせることにした。(実は天界の図解を中村犬蔵先生に発注したときも、かなり具体的すぎる指示書を送ったあとで、思いついた追加の指示をどんどん送ってしまった。さすがにこれ以上は迷惑をかけられないと考え、途中で止めた。中村犬蔵先生、破格のギャラでいろいろお願いして申し訳ございませんでした)
だから、いくつかの細かい説明は省略している。
たとえばオレンジ色の小さい物体(雷神教授が通路を匍匐前進をしてるとき宙に浮いてたり、雷神教授の顔に水がぶっかけられたとき花びらみたいにくっついたりするやつ)は、あれは「雷神教授の失踪に気づいた同僚の神々が、裏切り者の雷神教授をあざけるために(あるいは彼の計画を邪魔するために)送り込んだ式神」ではないかと考えているのだけれど、あまり本筋とは関係ないし、別の話が始まってしまいそうなのでここには書かない
というわけで、お約束っぽい締めかたにはなりますが。「これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう」という終わり方でどうでしょうかね。