Beehive 2

引き続き、蜂の巣の話。

自分の住んでいる家の、二階の外壁と手すりの隙間あたりを、複数の蜂が飛び交っている。その様子を初めて見たのは今年の4月だった。そのとき私は「まずいぞ。あいつら巣作りを始めるつもりかもしれない」と思った。しかし、まだ巣ができていないのなら、周辺に煙を炊くなり薬を撒くなりできるだろう。いまなら何らかの対処をすることによって、お互いに犠牲者を出さずに済むのではないか?

いずれにせよ、まずは巣ができているのかどうなのかを確認する必要があるだろう。そう思った。しかし私は、「また蜂に刺されたら死ぬかもしれませんよ」と医者に脅されている人間なので、完全にビビっている。蜂が活動している最中に、その近辺をじっくりと見上げるような度胸はない。かといって真夜中に懐中電灯で照らしたら、とんだ藪蛇になる可能性もある。

私は、「蜂が動き回るには暗すぎるものの、なんとか手すりを見られるぐらいの明るさが残っている時間帯」を狙うことにした。しかし、そんな時間帯はなかった。働き者の蜂は、とっぷり日が暮れるまで飛び回っている。それでも一応は目が利くぐらいのタイミングで、蜂は活動を終えてくれた。ようやく私は、問題のエリアの真下に立って観察することができた。昼間に蜂が飛び交っていたあたり、手すりと壁の隙間に、丸まった毛布が挟まっているのが見えた。

それは私にとって、少しも不思議なことではなかった。

はっきり言おう。この家の二階に住んでいる大家さんは、ちょっと病的にルーズなのだ。この敷地のどこを見ても、いろんなところにいろんなものが転がっている。たとえば裏庭には壊れた家具やら、使われていないツールやらが散乱していて、そこには「子供が乗り込んでキコキコと漕ぐことのできる車型の玩具」が6個ぐらいある(ちなみに子供は2人しかいない)。それらはぜんぶ汚れており、明らかにパーツが足りないものもある。だったら新しいのを買ったときに古いのを捨てりゃあいいじゃねえかと言いたいところだけれど、大きなお世話だから何も言えない。まあ、とにかく、そういうタイプのファミリーが住んでいる家なのだ。手すりに毛布ぐらい挟まるだろう。

私は彼らに呆れてはいない。個人的には、これぐらいだらしない大家さんのほうが好ましいとすら思っている。なにしろ前の住処は、まったく逆のタイプ、とんでもない潔癖症の夫婦が大家さんだった。そこで2年ほど暮らしていたときの私は、ときどき息が詰まるような思いを強いられていた。粗大ゴミだらけの雑然とした家は大歓迎だ。しかし、いまはそんなことを言っている場合ではない。あの毛布は、蜂にとって格好の隠れ家になっているかもしれない。毛布と壁の隙間を利用して、そこから巣を作りはじめる可能性だってあるだろう。

すでに毛布の内部で巣が作られているかもしれないけれど、いまならまだ、少しの犠牲で済むのではないか。自分のアレルギーのことを伝えて、なんとか毛布をどかしてもらいたいと大家さんに交渉してみようか。しかし、それを捨てるのは危険な作業になるかもしれない。そもそも誰がやるんだ。

そんなことを延々と考えながら、私は暗がりの中で丸まった毛布を睨むだけだった。次の日も。また次の日も。

それから三、四日ほど経った夜。私は生ゴミを捨てるために家の外へ出ようとドアを開けた。それとほぼ同時に、隣家の裏口のドアも開いた。その動きをセンサーが察知したのか、小さな電灯がぱっと点く。薄闇の中に、皺の深い顔が照らし出される。お隣のおじいさんだ。「はい」「はい」と、私たちは簡単に挨拶を交わした。おじいさんは鼻歌を歌いながら大きな木箱を開け、ごそごそと何かを探している。

ふと気づけば、隣家の電灯のおかげで、こちらの家の裏庭も少し明るくなっていた。せっかくだからということで、私は例のエリアへと足を向け、毛布を見上げた。そこに毛布はなかった。私がずっと丸めた毛布だと思っていたものは、どう見ても最近できたばかりのものではない、すっかり完成した形の大きな蜂の巣だった。ぞくっとした。膝が震えた。それは、いつからそこにあったのだろうと思った。それでも次の瞬間、なぜかほっとした私は、ちょっとだけ笑っていた。もう、ここまで完成しているのなら、彼らと戦わなくていい。

過去にアナフィラキシーショックの症状を出している人間が、こんなデカい蜂の巣の真下に何か月も住んでいたというのは、なんだか面白いような気がする。決して悪くないエピソードだと思う。そして、こんな立派に作り上げられた見事な蜂の巣を崩してでも、お前は生き残りたいのか、蜂よりも後から来て住み始めたお前にそんな権利があるのか、そんなにお前は死にたくないのかと問われたら、正直なところ「どうなんだろうねえ」としか答えられないのだ。