新刊に関するご案内

 ご無沙汰いたしております。

 原書房さんから新しい書籍が刊行されることになりました。一田和樹さんとの共著で、『新しい世界を生きるためのサイバー社会用語集』という本です。
 書籍のタイトルに「サイバー」という文字が入っていますが、サイバーセキュリティの技術者向けというよりは、むしろ普通にSNSを利用しているネットユーザー向けかなと思います。 まずは一田さんの作成された「新しい世界を生きるためのサイバー社会用語集クイズ」を試していただきたい。これで興味を持たれた方には、是非とも本書を読んでいただきたいです。
 この本が取り上げているのは「現代のサイバー社会」ですので、世界中のオンラインの世論操作やフェイクニュースの話題が非常に充実しています。モロに一田さんの得意分野です。というよりも、この内容をいま日本語で書けるのは一田さんだけじゃないかなと私は思ってます。

 さて。
 一田さんとは『犯罪「事前」捜査』でも共著させていただいたのですが、今回の新刊における私の役割は前回と大きく異なっています。

 身も蓋もない表現をいたしますと。『新しい世界を生きるためのサイバー社会用語集』 は一田さんの本だと思っています。いまも昔もサイバーセキュリティの第一人者として際どいところを駆け抜けている変人が、膨大な知識と労力を注ぎ込んで執筆した珍しい書物です。今回の私が担当したのは、誰が書いても大差なさそうなパートだけで、分量も少なめになっています。つまり執筆とか共著とかいうのは大変おこがましいのです。

 実は、このお仕事の話を一田さんから頂戴したとき、私はいったんお断りさせていただきました。「私の知識はほとんど二年前で止まっています。いまは趣味としてセキュリティニュースを追ってる程度なので、昨今の複雑な事情について書ける自信がありません」とお伝えしました。それでも書ける部分を、とおっしゃいましたので、「数年前から特にアップデートの必要がなさそうな部分があるなら指定してください。そこだけお手伝いとして書きます。その場合、執筆者の名前は一田さんだけで充分でしょう。 印税のかわりに、ステーキか牡蛎フライを奢ってください」と申し上げたのですが。
 一田さんからは「自分が書いたものを他人の著作として扱わせるべきじゃありません。 クレジットの問題を適当にしちゃダメです」との忠言を賜りまして。ああ、岡本さんも真顔でそういうことを言う人だったんだよなあ、この二人と働けた私は幸いな人間だったなあ、なんてことをしみじみ思いながらお仕事させていただきました。

 お手伝いしかしていない、というのは謙遜じゃないです。私はそんなに控えめな人間ではありません。たとえば前回の『犯罪「事前」捜査』は、まさしく共著だと思っています。「第一章と第三章と第五章は一田さんが書いてるのよ、だからいかにも頭のいい人っぽくて面倒くさいかもしれないけどさ、第二章と第四章は私が書いてるから、すんげえ単純だから、誰にでも読めるから、けっこう頑張って書いたから読んで読んで。そこだけでも読んで」などと人に勧めていたぐらいです。しかし今回の本に関しては、共著と言われるのが恥ずかしいのです。「これは一田さんの本ですよ。ちゃんと普段から関係者に会ってバリバリ調査しまくってる人にしか書けない」という気持ちが非常に強いです。
 つまり、一田和樹ファンの方には自信を持って全力でお勧めできます。「犯罪事前捜査は面白い本だったけど、江添ってのが書いたところだけ邪魔だな、いらねえな」と感じられた方には特にうってつけでしょう。一方、これまで私が書いたものをわざわざ好き好んで読んでくださっていた少数派の方々には、あんまり仕事してなくてごめんねと謝りたい気持ちになっています。
 それでも「これ、かなり内容がすごいからマジで読んだほうがいいですよ」とは申し上げたいです。良い感じに絶望して山ごもりしたくなるような面白さです。こんなの書いちゃって一田さんは大丈夫なのかと、すこし心配になっているぐらいです。 

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 さて。
 現在の私は、BC州のバーナビー市にある某小学校の四年生の教室で Education Assistant の仕事をしております。簡単に言えば担任教師の補佐です。重度の身体障害を持った車椅子の児童でも、一日中暴れてしまうタイプの児童でも、あるいは天才すぎちゃって浮いてるような児童でも、普通の児童と同じクラスの中で一緒に授業を受けられるようにするべく学習内容をアレンジするのが主な仕事です。つまりカナダの小学校で働いている公務員です。
 いまの私が専任で担当している児童は、自閉症を筆頭に複数の学習障害と問題行動を報告されている男児ですが、たいへん頭が回る子で、私のiPadのパスコードを四回も破ったツワモノです。彼は私以外の職員とは口を利きませんが、私の顔を見ると喋りまくります。
 最近の私はTorを使わなくなったどころか、自分のPCを立ち上げる機会もほとんどなくなりました。たまにラップトップのキーボードを叩くときは、だいたい児童と一緒にMicro:bit で簡素なゲームを作ってます。それは悲しくなるぐらいに穏やかな、嘘みたいに平和な時間です。「おばちゃんはね、このMicro:bitを使ってドローンを乗っ取るっていう無茶苦茶なハッキング話の記事を翻訳したことがあるんだよ」なんてことは誰にも言わないわけです。

 というわけで。
 セキュリティ関係のお仕事をさせていただくのは、今回で終わりです。児童の指導に専念している私は、最新のセキュリティの話題についていけなくなりました。「やらない」というよりは、もうできないのです。

*

 もしも最後にセキュリティ関係の執筆をさせていただく機会があるなら、そのときは岡本顕一郎さんとご遺族に捧げる形で書きたいと願っておりました。その本にあとがきがあるなら、必ずや岡本さんについて触れたいと思ってました。もしも岡本さんに育てられていなかったら、私がセキュリティの執筆の仕事をする機会はなかったからです。しかし残念ながら、今回の書籍では本当にお手伝い程度の仕事しかしてませんので、「捧げる」もクソもあったもんじゃありません。さらに内容が用語集なので、あとがきそのものがありません。

 というわけで「捧げる」の夢は叶いませんでしたが。

 岡本さんとのSkypeの打ち合せ以外、ほとんど誰とも接触する機会がなかった「ゼロワンライターの数年間」は本当に楽しかったです。ゼロワン関係だけではなく、あの業界でいろいろな仕事ができたのは、本当に岡本さんのおかげでした。
 とはいえ岡本さんは、ボンクラだった私を強引に育てあげて、わざわざ違う景色が見えるところまで連れ出したあとになってから自分だけ勝手に消えてしまった人でもあるわけですから。いまでも「私の人生をなんだと思ってやがるんだ、無責任すぎる、覚えてろよ」と心のどこかで思っていたりするのですが。次に会ったときのために愚痴はとっておきます。

 また、この世界に私を引っ張り込んだというよりは、むしろ「他に道がない」ような形で突き落としてくださった一田さんにも感謝しております。お二人のおかげで、最高に興奮できる仕事ができました。 本当に、仕事以外のことを何も考えられなくなるほど楽しかったのです。

 もう、その場所に未練はないのですが、そこに行かなければ良かったという後悔もありません。ただただ感謝です。半地下に籠って翻訳と執筆に明け暮れた数年間は、私の宝だったと思っています。本当にありがとうございました。

 もうちょっとお話したいこともあったのですが、明日は児童をスケートリンクに引率しなければならないので、そろそろ寝ます。おやすみなさい。