「食べ放題でイチゴの先っぽだけ食べる客がいて悲しい」というツイートを流したイチゴ生産者の件について、私なりに思うところを書いておきたい。
あのようにショッキングな写真を掲載すれば、人の賛同を得やすいだろう。「見てください、ひどいでしょう、腹が立つでしょう、イチゴが可哀想でしょう」と訴えかけて人の心を動かそうとするのは、まるで毛皮反対派の人々が「皮を剥がれた血まみれの動物の写真」を使うときの手法みたいだよなと思いながら、私はそれを見ていた。
私個人は決して毛皮など買わない。大嫌いだからだ。同じエレベータの中に、毛皮を着ている人が一人いるだけでも吐きそうになるぐらいに嫌いだからだ。革製品も好まないので、なにを買うときも、できるだけ皮のパーツは最小限になるように努力している。それでも「あんなものを使うやつの気がしれない」などと言うつもりはない。革製品は野蛮だし悪趣味だと感じるけれど、それは善と悪の問題ではなく感覚の違い、あるいは尺度の違いだと考えている。そして自分が少数派なのだなということも分かっている。たぶん私は中途半端なベジタリアンみたいな存在なのだろう。人に説教をするベジタリアンは鬱陶しい。だから私は、革のバッグや財布を使っている人を見ても、特に何も言わないし、酷いやつだとも思わない。しかし、血まみれの残虐な動物の写真を見せる「毛皮反対派団体の人」は、なにがなんでも、無関心な悪者たちの根性を叩き直して正しい方向へ導こうとしているように見える。そんな上から目線のヒステリックな態度が、どうしても私は好きになれない。私自身も革製品を嫌っているけれど、まして毛皮など言語道断だと思うけれど、それでも彼らのショック療法みたいな手法は不愉快だと感じる。
そしてイチゴ農家の件は私にとって、毛皮反対派のキャンペーンよりも、ずっと気味が悪かった。こいつ何やってんだろう、というのが私の最初の感想だった。
たとえば毛皮反対派の人々が自分の主張を訴える場合、そこには明確な目的がある。彼らがやっているのは、「毛皮製品がどのように作られているのかを人々に知らせ、購入者を減らす」「毛皮業者を儲けさせるのを阻止する」「毛皮製品の輸入を禁止して業者を追い詰める」などの具体的な解決方法を目指した活動だ(と私は思っている、それがいいとか悪いとかいう話ではなく)。しかしイチゴのツイートはどうなんだろう。まるで「悪い人間たち」が、「一生懸命にイチゴをお世話してきた私」を傷つけているという一方的な物言いで、ただ「こういうひどい人がいる、みんなも怒ってください、ヒステリックに広めてください」と訴えているだけのようにしか私には見えなかった。
あなたは何をしたいのだ。そこが分からない。自分がいかに悲しい思いをしたのかを訴えたかっただけなのか。いや、あれが「食べ放題の現実を皆さんにも見てほしい」という一消費者のツイートであったというのなら理解できる。しかしツイート主は、この状況を生み出した一因だろう。なぜ当事者であるあなたが当然のように腹を立てているのか、なぜ客だけを悪者に仕立てあげて、被害者として非難しているのかという点が、私にとって実に不愉快なのだ。
「××分食べ放題」というのは、人類の醜さが端的に表れるシステムだと思う。どんなに食べても値段は同じ、という立場に自身を置くことによって、普段より丁寧に味わったりもせず、一口一口に感謝する暇もなく、時間いっぱいまで、少しでも得をするように、少しでもいい思いをするように、どこまでも下劣になって欲望を剥き出しにすることを目的とした「レジャー」なのだと私は思っている。それを断罪したいとは考えていない。そのレジャーが、あまり裕福ではない人にとって、いかに楽しいのかを私は知っているからだ。それは資本主義社会の中で、常に「価格と欲望」のバランスを取りながら、本当に食べたいものなど滅多に食べられないまま、常に我慢しながら意思決定しなければならない人々が、決められた時間だけ、なにも恐れず、なにも考えずに、ひたすら意地汚く欲望を開放できる場所だろう。非常に悲しいけれど、これは必要悪かもしれないと考えている。そう思わないと自分を正当化できないからだ。
人間は、自分の欲望のためなら驚くほど残酷になれる生き物だと私は思う。フカヒレだのフォアグラだのといった、生命の尊厳を徹底的に踏みにじるような痛々しい食べ物が、「美味しいから」というだけの理由で 21 世紀になっても残されていることを考えれば、「限られた時間の中で、できるだけ良い思いをするために、摘みたてのイチゴの先っぽだけ食べちらかす人」がいたとしても、少しも不思議ではないと私は思う。それと似たようなことや、それより残酷なことには、だいたいみんな荷担しているだろう。ガチョウの身動きを奪って強制給餌で肝硬変にしたり、ほんの僅かなパートだけを毟りとったサメを海に戻して死なせたりといったことを、痛覚のある生き物を相手に実行できてしまうのだ。
それでも、思わず目を反らしたくなるような痛々しいイチゴの写真を掲載すれば、多くの人々が非常にあっさりと「まあ、なんてひどい、シェアしなければ」と感じてしまうだろう。そういう短絡的な感情の流れを生み出そうとする人のほうに、私は憎しみを覚える。その情報の拡散には、「毛皮業者を潰そう」とか「フォアグラを禁止しよう」といった明確な目的も示されていないのだから、それに加わった人々にできることといったら、「食べ物を粗末にするゲスな人間たち」という敵のグループを作り、自分とはまったく異なる存在として見下し、最低だ、信じられない、下品だ、罰当たりだ、どんな育ち方をしたのだ、たぶん日本人じゃない、私ならこんなことはしない、死ねばいいのに、などの言葉で、フカヒレのことは棚に上げたまま罵ることぐらいだろう。
もしもツイート主が、「人間というのは、かくも恐ろしい行動を取ることができるのだということを思い知らされた。私はもう、イチゴの食べ放題など二度とやらないことにした。皆さんも、もう『食べ放題』ではしゃぐのを終わりにしてみてはどうだろう」ということを伝える目的で、ああいった残酷な写真を広めたというのであれば、私は「うーん、確かになあ、あれはあれで仕方ない必要悪だという気はするのだけれど、やはり倫理的にどうかとは思うよなあ」と共感しただろう。しかしツイート主が示しているのは、あくまでも「悪者の批判」だ。そのような機会を設けたのは自分であるにも関わらず。
そう、私には、その点も大いに引っかかっている。あのツイートを流した人は、なぜ食べ放題などというシステムを自ら導入したのか。それほど大切に育ててきた可愛いイチゴだというのなら、なぜ最後まで大事にしなかったのか。なぜ餓鬼の群れの中に放つようなことをしたのか。もしも私が本当に大切に農作物を育てている人間であったなら、ビニールハウスに他人が入ることなど決して許さなかっただろう、検査のために誰かがハウスに立ち入るだけでも、気が気でならなかっただろうと、「あくまでも綺麗ごととして」私は想像する。大事に育てたものであれば、丁寧に摘み取りたい、傷つかないようにパック詰めしたい、出荷するところまで見届けたい、なるべく信用できる業者に出荷したい、そうやって「おいしいイチゴを待ってるお客さん」が大切に食べてくれることを願いたくなるだろう。いや、私は極端な人間だから、そのままうっかりロハス系に転じて、「客が来てからイチゴを一つずつ摘み、いちばん美味しい状態で提供する小さな店」みたいなものを経営しはじめて、あっさり破産するのかもしれない。もちろんそれは、実際に生業としてイチゴ農家をやったことがない人間だからこそ語れる戯言なのだけれど。
なぜ食べ放題なのか。それはコストを重視したからだろう。積んだり出荷したりする際の時間や人件費と、客に自由に食べさせる料金を比べたうえで、自分の状況にあわせた選択をしたのだろう。そのこと自体を非難するつもりはない。「最後まで、もっと大切に育ててはいかがですか」なんて、他人の子育てに口を出すような話だ。そんなのは本当に大きなお世話だ。みんなそれぞれに事情があって、それぞれの理想と現実があって、それぞれが自分の懐具合に合わせて生きてるのは当たり前のことだ。それと同様に、「食べ放題という場所で、どこまで自分が理性的でいられるか/鬼畜になれるのか」という問題も、明確なルールが設けられていないかぎりは、それぞれの尺度だろうと私は考える。時間と金だけが決められた場所で、マナーだのなんだのに期待しても無駄だろう。つまり、「自分の育てたイチゴを食べ放題で提供する」というのは、たとえばエロ漫画にありがちな設定で言うなら、終身刑の囚人だけを集めた私設の刑務所だとか、悪の地下組織だとか、軍隊専用の売春宿だとか、飢えきった猛者たちばかりが集まっているような施設に、何の抵抗もできない娘を売り飛ばして、「どうぞ皆さん、時間いっぱいまで自由にお楽しみください」と言うような話に似ていると思う。そこでボロボロにされた瀕死の娘を写真に撮った父親が、「ひどい、自由にしていいとは言ったけれど、やっていいことと悪いことがあるだろう、私は客がノーマルなセックスをすることに期待していたのに。なんて残酷なことをするのだ、私は暴力をふるってもいいとは言わなかったぞ、道具を使っていいとは言わなかったぞ。最近のやつらはマナーというものを知らない、最低限の礼儀も常識も知らない。見ろ、私の娘はいまにも死にそうだ、この痛々しい写真を見てくれ」と言われても、私は共感できない。
先進国の人間は食べ物を粗末にする。それはイチゴに限らない。コストを重視するために、誰にも食べられない食料がガンガン捨てられる。商売は金を稼ぐための活動だから、「利益を減らしてでも食べ物を無駄にするな」などという牧歌的な理想は通用しない。儲けのためなら生き物は無駄に殺される。そういう残酷なシステムに、ほぼ全員が荷担している。たとえば私がアルバイトしていたファストフード店では、揚げてから 7 分が経過しても売れなかったポテトは廃棄されていた。そんな罰当たりな店が潰れない。ほとんどの人は、注文してすぐに食べられる熱々のポテトが好きだからだ。「だって、ファストフードのポテトって、ときどき無性に食べたくなるでしょう」とか、「しなしなになっていないポテトを、あまり混雑していないカウンターで注文したい」とか思っているからだ。そのような無駄を生み出している先進国の人間が、イチゴ農家のイチゴを見て心を痛め、分かりやすい正義感を持って、「こんな悪者は許せない」と怒るのは、果たしてどうなんだろう。まして自分がレストランでわざわざオーダーしたものを、「まずいから残した」などと平気で言えるような人であれば、なおさら不条理だ。なぜ、味の分からないイチゴの写真を見ただけで、あっさりと腹を立てることができるのか。あなたが批判している連中も、あなたと同じような考えをもって、「先っぽ以外はまずいから残した」という可能性については 1 秒も考えなかったのか。どれだけ自分を正しいと思い込む能力があれば、そこまで身勝手な発想になれるのか教えてほしいとさえ思う。
あれが、「人間というのは怖いですね」とか、「我々も反省したいです」とか、「食べ物を無駄にしないために、私たちに何ができるのでしょうね」とかいうようなテーマの話であったのなら、それは貴重な意見だと思う。しかし、「分かりやすい悪者(自分はそこから金をもらってる)」を断罪したがる人が、ショッキングな写真で人々を煽り、「私ならそんなことをしない、許せない(でもファストフードは食べる)」という正義感に燃えた人たちが、一斉にその悪者を攻撃するという、そういう浅薄な現象を見ると、私はとても嫌な気持ちになるのだ。「私はイチゴが好きだから悔しくて仕方ない、頭にきた」という感情までは分かる。すごく分かる。でも、そこから先の悪口には共感できない。とはいえ、あなたがそれに荷担していても私は構わないし、そんな理由であなたを嫌いになることもないだろう。それでも私は、「あなたに少しも同意できない」ということを明確に伝えずにいられない。
長すぎて読む気がしなかったという方もいると思うので、最後に一文でまとめておこう。私は、なんでもかんでもあっさりと「善と悪」の二元論にして、善として悪を断罪する行為と、そのような動きを煽る行為が、どうしても好きになれない。