Another Man’s Poison

熊本の震災は本当にショックだった。いきなり家や仕事を失い、避難所での不便な生活を強いられたうえ、いまも不安に晒されながら暮らしている人々の気持ちを想像すると、その想像が現実に追いついていないのであろうことを考慮しても辛い。それだけは先に言っておく。

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数日前から様々な SNS で、くまモンの絵に「負けるな熊本」「頑張れ熊本」などのメッセージが掲載された投稿を見る。あれを見るたび、私は複雑な気分になる。もう自分を捨てろ。そっちのほうが楽だ。そうすれば誰にも迷惑をかけない。誰も不快にしない。さっさと迎合してしまえと圧力をかけられているように感じる。

何年も前から(鍵をかけたアカウントなどで)さんざん言い続けてきたことだけれど。私は本当に、初めて目にした瞬間からくまモンが嫌いで嫌いでどうしようもなかった。あれを見るたびに必ず心がささくれ立っていた。それがどのようにして生まれたものなのかを知ってからは、ますます嫌いになった。だからいまは本気で困っている。「熊本頑張れ」で使われる時のくまモンだけは愛さなければ、血が通った人間ではないと非難されているような気分になる。少なくとも今だけは、くまモンを可愛いと思わなければ、君は人でなしだよと言われているようで苦しい。でも私には無理なのだ。それらのキャッチコピーも、くまモンも、どうしてもまったく受け入れられないのだ。以下に理由を説明したい。

 

●熊本は、頑張らなければならないのか?

まず「頑張れ熊本」という言葉からして、どうかと思っている。大きなお世話じゃないのか。いま熊本で生活している方は、他の地域に住んでいる人々より頑張っているだろう。頑張りすぎなぐらいに頑張っているだろう。これだけ大変な目に遭っている人々に、まだ頑張れというのか。「そんなものじゃ足りない、弱音を吐くな、もっと一人一人が限界まで苦労できるぞ」「いろいろと納得できないことはあるだろう、しかしここは精神論で乗り越えろ」という言葉に聞こえる人もいるのではないか。

おそらく大半の人々は、そんな風にひねくれた受け止め方はしないのだろう。「頑張れ」と言われて、「ありがとう、頑張るよ!」と嬉しく感じることができる人も多いだろう。しかし私の気持ちは全力で、その「大半」に入らなかった人々のほうに向かっている。きっとあなたは、これまでだって充分に頑張ってきたし、その努力を一夜にして無にされるような目に遭ったのだろう。たとえふて腐れたとしても責められるべきではないと思う。「もっと辛い人もいる」とか、「もっと頑張ってる人もいる」とか、そんな比較は無意味だ。関係ない。聞かなくていい。あなたの過去の努力が、少しでも何らかの形で報われる日が来ることを、そのような措置が取られることを私は願っている。

 

●すべての熊本県民に、くまモンは愛されているのか?

そして、くまモンだ。本当にあれが熊本を象徴する存在ってことでいいのか。ほんの数年前に東京のデザイナーが考えた、ぽっと出のキャラクタだぞ。あれで本当にいいのか。

すこし前までの私は、くまモンを見るたびに想像していた。「もしも私のような人間が熊本出身で、自分の故郷を心から愛していたならば、どこもかしこもくまモンだらけになった自分の町を見て、どんな気分になっていただろう?」と。きっと私は深く嘆いていたはずだ。「私の大好きな熊本は、すっかり観光コンサルタントと広告代理店と小山薫堂に乗っ取られてしまった。私の愛した故郷は、ゆるキャラを利用したブランド戦略で経済効果を生み出すコンセプト一色に染められてしまった」と。

そんな私の町に、ある日とつぜん大きな天災が降りかかり、私が何らかの財産や仕事を、あるいは友人や親戚を失ったとして。ようやくネットに接続できるようになったとき、 のタグを見てしまったらどうなるのか。おそらく私は本気で絶望するだろう。ああ、もう何もかもウンザリだ、そろそろ死なせてくれと考えるかもしれない。まして自分の大好きな漫画家が、その活動に参加しているのを見たら。

もちろん、「そういう少数派もいるのだから、こんな活動はやめちまえ」と言っているのではない。そんなことは微塵も考えていない。あのタグを見たとき本当に嬉しかった、励まされたという方は山ほどいるのだろう。だから、なるべく横やりを入れるようなことは言いたくなかった。ただ私は、100%の善意が100%の人に伝わり100%の人を喜ばせるなんてことは絶対にない、ということを、あらためて書いておきたかったのだ。みんながみんな同じものを見て同じように心を温められるわけじゃない。そういうひねくれたやつはムカつく、という方もいるだろう。空気を読めない人間、流れを乱す人間を不愉快に思う方もいるだろう。ただ、あなたがどんなに嫌おうと、憎もうと、私のような人間は確実に存在している。少数派であろうと、声が小さかろうと、経済効果を狙ったキャラクタ戦略を「ガキ臭くてみっともない」と感じる人間は確実に存在している。

それはくまモンに限った話ではなくて。もしも「みんなが同じものを同じように愛し、心を一つにして社会全体で乗り越えなければならない壁」があるのだとしたら、そのような壁は最初から乗り越えなくていいと私は思う。どだい無茶な話だからだ。それでもなお乗り越えたいというのであれば、せめて個人が勝手に回避できる選択肢も残しておいてもらいたい。おそらく私は、それを乗り越えられないことで周囲に迷惑をかけ、邪魔者あつかいされた挙げ句、まだ壁も見えないうちに仲間うちで殺されてしまうほうの人間だからだ。