もう本当に今年いっぱいは仕事を増やさないと決めていたのだけれど。東京で初めてお会いした某セキュリティ企業の社長さんが本当に感じの良い方で、お会いした数日後には単発業務の依頼をくださったので、ついつい嬉しくなって受注してしまった。ぱっと見た感じ「帰国日の午後から手をつけて、そこから丸3日ぐらいあれば終えられる作業だな」と思っていた。
しかし東京からバンクーバーに帰る飛行機の中で、私は珍しい状況に出くわしてしまった。
自分の隣の席に、大きな古ぼけた人形が座っているのだ。それはボロボロのワンピースを着た人形で、かなり汚れている。しかし大事に扱われているらしく、きっちりとシートベルトを装着している。その人形を挟んで2つ隣の席に座った中年女性は、ときどき笑顔で人形の頭を撫でていた。
私は、あまり飛行機の座席運が良くないほうだと思う。後ろに座った子供から2時間、えんえんと椅子を蹴られ続けたこともある。イヤホンジャックの壊れている席で、両サイドに大柄の男性が座っているという状況で、両方の肘掛けを取られて身を小さくしたまま何もできずに12時間を過ごしたこともある。サルのように興奮している修学旅行の高校生たちに囲まれ、騒がしい10時間を耐えたのだって、一度や二度ではない。それらの経験も「古ぼけた人形の隣の席」に比べれば、ぜんぜん可愛いものだった。辛いとか、腹立たしいとかいうような感情は、「恐怖」の足下にも及ばないものだな。そう思った。つまり人形の隣に座っているときの私は、最初から鳥肌が立ちっぱなしだった。ちょっと泣きそうだった。
しかし私が搭乗前に座席表を確認したとき、人形の席は空席だった。持ち主の席だけが埋まっていた。ということは、彼女は人形の分のシートを予約していないはずだろう。それならば離陸の前に「荷物は荷物棚に入れてください」と注意されるのではないだろうか。そんな期待を抱いた。しかしCAたちは、その人形を見るたびに一瞬ひるんだような表情を浮かべるのだが、すぐ貼り付いたような笑顔に戻るのだった。これは、あれだ。見て見ぬふりをしているのだ。なんということだ。
持ち主の女性が雑誌を読みはじめた隙を見て、私は静かにCAさんを呼び止め、できるかぎり小声で話しかけた。
「すみません、席を移動したいのですが」
「申し訳ありません。あいにく本日は満席で」
「あの。怖いんです。隣の人形が。何か事情があるんだとは思うんですが」
「……ええと、あちらの(人形の持ち主の)お客様とはお話なさいましたか?」
「してません」
「私のほうから、人形を棚に入れていただけないかどうか交渉しましょうか」
「いや、刺激しないでください。なんか、その、理由があるんでしょうし、私が怒られたら怖いですし」
「そうですね……(突然ぱっと良いことを思いついたように、嬉しそうな顔で)お客様」
「はい」
「お客様が、なにか精神的に『ぬいぐるみや人形を特に怖がる』という恐怖症のようなものをお持ちでしたら、そのように説明できますし、他のお客様に事情をお話して、席をお譲りいただけないか交渉することもできるかと」
「いや……普通のぬいぐるみは怖くないです(なぜか正直に答えてしまう)」
「そうですか……(ちょっと見放すような目を向ける)」
「はい」
「私からも後ほど、あちらのお客様に事情をお伺いしてみます。こちらも把握しておきたいので」
「はあ」
「何か分かりましたらお知らせします」
「はい」
「どうしても怖かったら、またお呼びください」
「はい」
CAさんは去っていった。このあと、彼女が何らかの説明をするために私のところへ戻ることはなかった。あまりダダをこねたくなかったので、あっさりと引き下がってしまったけれど、やはり怖いものは怖い。ちょっと気を抜くたび、視界の端に入ってくるスカートのすそ(ボロボロで黄ばんでいる)がものすごく怖い。ぞくりとして身を固くするたび、自分に鳥肌が立っているのが分かる。酒に酔えば気も大きくなるのではないか。そう思ってアルコールを投入したものの、まったく効果はなかった。軽くウトウトしても、人形のスカートのすそが目に入るたび、びくっと身体が飛び退く。心臓のペースが上がる。あまりにも怖すぎて、どんな人形だったのかを観察する余裕はなかった。もしかしたら人形ではなくてヌイグルミだったのかもしれない。とにかく3~4歳児ぐらいのサイズで、ちゃんと椅子に座って、シートベルトをつけていた。それしか確認できなかった。
*
このアクシデントのおかげで、帰りの機内では眠ることも働くこともできず、ただ9時間あまりのフライトを「恐怖に震えるだけ」で浪費してしまった。自宅に戻ってからも寝付きが悪い。夢見が悪い。いまだに怖い。もう帰国日から3日目だ。そろそろ終わるはずだった仕事は、まだ6割ぐらいしか終わってない。
とても危なかった。最初から安請け合いだったのかもしれないけど、それでも「28日までに納品します」とか言わなくて本当に良かった。家から一歩でも出る予定があるのなら、余裕を持ったスケジュールを立てなければダメなのだなということを、今回の件で痛いほど思い知った。たとえ危険に身を投じていなくとも、とにかく自宅で作業をしていないかぎり、予想外のことが発生する可能性は大幅に上がってしまうのだ。そこで何が起こるのかは本当にまったく分からない。飛行機を予約するときだって、少しでも快適に過ごせたほうが嬉しいから、過去の経験で学んだ様々な知識をフル活用しているけれど。「隣の席にボロボロの大きな人形が座ってしまうかもしれない」なんて、そんなことは予測できるわけがないのだ。