Filipino Food 6

明日から忙しくなるから、ずっと保留していたものを、いまのうちに書いてしまおう。

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数年前から急に、「美味しいものや高級なものを次々と食べたがる人たち」が苦手になった。見ていられないほど下品だと思うようになった。きっかけが何だったのかは分からない。ただ、「私は美味しいものだけ食べたい」と言う人と、「俺はいい女しか抱かない」と公言して憚らない男性との違いが分からなくなった。もちろん、あなたが何を好もうと勝手だ。あなたはあなたの財力なり権威なりを利用して、選りすぐりの若い姉ちゃんを何人でも手に入れればいい。ただ気持ちが悪いから、それを人前でいちいち口に出さないでもらいたい。そう思うようになった。

まして、「もう君もいい年なんだから、年相応の、恥ずかしくないものを食べたまえよ」みたいな説教をたれる人間に会うと、死ねばいいのにと思わずにいられない。なにが「年相応」だ。加齢とともに人間の舌の機能は鈍るというのに。お前らなんか、たいして勃起もしなくなったくせに、金の力で若い愛人をはべらせてニヤニヤしてるジジイと同じじゃないか。まだ気持ちだけはお盛んなのか。それが大人のたしなみか。くだらねえ。お前こそ恥を知れ。

それと平行して、高級なレストランの美しく飾られた料理もどんどん苦手になってきた。嘘くさいと感じるようになった。血まみれになって家畜を殺している人とか、生臭い手で魚のうろこを剥がしたり内臓を抉り出したりしている人とは別次元に存在している、とでもいうかのような風体で供されるメシを、不誠実だと思うようになってきた。まるでディズニーランドのように不気味だ。「殺した相手を食っている」という現実を極限まで覆い隠した、着ぐるみたちのような料理が夢の国を演出している。それはそれで好きな人もいるだろう。でも私はもう、何も考えずにディズニーランドではしゃげるガキではない。

はやりの料理は、ずっと前から大嫌いだった。「食べ物」でブームを起こして一発あてようとする連中が、嫌いで嫌いでどうしようもないからだ。あまり聞いたことのない名前のメニューやら、変わった香辛料やら、まだ珍しい食材やらを紹介しながら、一般人に新しい食文化を植え付け、それで新しい金を生み出そうとする人間が、私には憎むべき敵に見える。彼らは食べ物を冒涜している。そう思えて仕方ないのだ。

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友人Aにフィリピン料理店を紹介されて以来、私は何店かの別のフィリピン料理店を探して入ってみた。結局、私のお気に入りは、最初に入った近所の店になった。しかし複数の店でフィリピン料理を食べてみた結果、ひとつ分かってしまったことがある。

この町のフィリピン料理店は皆、おそろしいまでに実直だ。「これが当店の目玉です」「フィリピン料理とはこういうものです」「こういった特徴があります」「さあ、どうです」「美味しいでしょう」「またお越しください」みたいな商売っ気が少しも感じられない。まず、どこの店舗もぜんぜん目立たない。ぼんやりしていると簡単に通り過ぎてしまう。店に入ってもメニューがない。どんな食材をどのように料理しているのか、そんなことはまったく説明しないし、料理の名前すら表記しない。ただ、できた料理を見えるところに並べて、客に指さしで選ばせて、一律の料金を取っている。だから客はほとんどフィリピン人ばかりだ。それでいいと思っているのだ。

おそらく彼らは、話題の店になりたいとか、客を増やしたいとか、褒められたいとか、そういうことも考えていない。ずっと作ってきた料理を、普通に作って、普通に出してるだけだ。そんな彼らの作る料理は、普通に美味しくて、ばかみたいに安くて、分かりやすい刺激がなくて、なんだか懐かしい味がする。

バンクーバーでは、様々な国の珍しい料理が食べられる。それは楽しいことだ。ただ、「最近は台湾の牛肉麺がキてる」だの、「マレーシア料理だと最近は××の新メニューが好評価」だの、そういった噂話を聞かされる機会も多い。そのたびに私は、なんだか面白くない気持ちになる。おそらくは仕掛け人がいるのだな、ということが想像できてしまうからだ。聞きなれないもの、ちょっと変わったもの、自慢したくなるもの、話題性のあるもの、そういったものを出す料理店が、流行に乗るべく次々と現れ、そのたびに「ラーメン」やら「サムギョプサル」やら「バインミー」やら「シャオロンパオ」やらが儲けの種として弄り回され、汚されていくようで、なんだか嫌な気分になってしまう。食べ物っていうのは、そういうものじゃないだろうと私は思っているからだ。

もしかしたらフィリピン料理店は、私にとって、この町の最後のサンクチュアリみたいな存在なのかもしれない。