Two Boys in a Class 2

前回の続き。

おそらく自分は、カナダで育ってきた学生たちに比べて「障害者のクラスメイトと過ごした時間」が圧倒的に足りないため、このような課題を提出するには非常に不利な立場なのだということを思い知らされた。しかし「だから無理だ」と考えるわけにもいかないだろう。なにしろ、この文書は「普通の授業についていくのが困難な子供」を対象として書かれるものだ。つまり、様々な事情で周囲の生徒よりも出遅れてしまっている生徒をどうにか手助けするために書かれるものだ。その生徒は、他の生徒よりも努力しなければならない、それを分かっていて頑張らせようとしているような人間が、「自分は周囲よりも不利だから書けない」とダダをこねるのは明らかに間違っている。

そうだ。私は、このクラスでは最初から学習障害の壁に悩んでいる学生なのだ。英語に関する知識も、カナダの一般常識も、他の学生から遙かに引き離されている。カナダの学校に関する基礎的な知識も、私だけが知らない。そして言語の面でも大いに不自由している。この先どんなに必死になっても、母国語として英語を話してきた学生たちと同じレベルには決して到達できないと思う。しかし、それを理由にして「もうできない」とダダをこねるような人間が、障害児に学習を促しても説得力がない。そうだ。むしろ私のような周回遅れの人間にこそ、周囲を圧倒するような良い成績で卒業する意義があるのだ。そうだそうだ。

というわけで、どうにか自分を奮い立たせてシナリオ作りを開始した。とにかくウェブで情報を集める。いろんなケーススタディやら、ブログやらを読んで、これまで学んだことと照らし合わせながら想像力をフル稼働して、私は「FASDのJ君」「AD/HDのT君」という2人のキャラクタを生み出した。どんな感じの子供なのか、これまでの彼らがどのように暮らしてきたのか、いまクラスでどのような状況なのか、そういった設定がリアルになるように、かなり詳細まで作り込んだ。どんどん作り込んでいくうち、私の頭の中で、J君とT君は「同じクラスにいる2人の生徒」として完全に人格を持ってしまった。

たとえばT君は算数とお絵かき(特に、線をなぞって色を塗るタイプのワークブック)と、自分の愛猫(黒猫のオリバー)をこよなく愛している小学校四年生の少年だ。彼は単純な暗記が得意で、小学校に入る前から九九を完全にマスターしていたのだが、文章問題は非常に苦手としている。けっこうプライドが高いので、「この問題は、こういう風に考えてみよう」などと説明を始められたら苛立ってしまう。そのまま教室をうろうろと歩き回ってしまう。だいたいいつも集中力は足りないのだけれど、計算ドリルやお絵かきシートの作業をさせると、とんでもなく集中してしまうこともある。算数やお絵かき以外の教科でも、トピックによっては急に興味を示すこともある。ただし国語は極めて苦手だ。もともとT君の両親はカナダ出身ではないため、彼は自宅で英語を話しておらず、またお気に入りのテレビ番組も英語以外のプログラムが圧倒的に多い。そのためもあってか、彼のボキャブラリは他のクラスメイトと比べると40%ほどしかない。文字や単語に対する認識も興味も薄いため、単語のエラーレートも他の児童の3倍ほど高い。さらに飽きっぽいので読書が難しい。なにしろ知らない単語があったときに「意味を調べてでも読む」ことは彼にとって大いに困難となるのだ。あとは、とにかくモノをなくす。まず自分が何を持っているのか知らないし興味がない。いつもシャープペンシルを7本ぐらい持ち歩いているので、2、3本落としても気づかない。しかし彼は自分の猫を深く愛しているため、猫にごはんをあげる仕事を忘れたことは一度もない。そういったムラがあるため、周囲からは「性格がだらしないだけ」「ワガママなだけ」と誤解されてきた。そして彼自身も、どうして自分が簡単にモノを忘れてしまうのか、どうしてみんなと同じようにできないのか悩んでおり、「自分はダメなのだ」と自信を失うこともあった。だから彼が小学校3年生のときに事件が起きて……などというような説明を、私は延々と書き続けた。気がついたらT君のバックグラウンドの説明文書は1000語を超えていた。さすがに長すぎる、と途中で気づいた。しかし私は途中で止めることができなかった。なにしろ私は彼のプロフィールを綴っているうち、ひとつの野望を抱いてしまったからだ。私はT君に筆記体を教えようとしていた。

ただでさえクラスの学習についていくことが難しい児童に、あえて不必要な筆記体を教えることはないという意見は多い。しかし私は様々な学説を検索しているうち、「文字の認識が特に希薄な児童にこそ筆記体を教えるべきである。新しい単語に出会うたび、それを『アルファベットではなく単語』という形で明確に示すほうが有利だ」という一部の学者たちの考えに共感していたのだ。私は、それをT君に挑戦してみてもらいたかった。なにしろT君は決して九九を混同したりしない。8×6=48の一つ一つの数字と記号を「かたまりで」覚えている。きっと彼は筆記体で単語を覚えれば強いだろう。さらに「なぞって塗るお絵かきシート」が大好きな彼にとって、transitional handwriting cursiveタイプのワークブックは苦にならないかもしれない。もしも彼が、毎週の授業で教わる単語(カナダの普通のクラスでは毎週、決まった数の課題単語が発表されて、金曜日にスペリングのテストが行われる)を筆記体で綴ることができたなら、そこで良い成績が出せたなら、彼はいい気分になれるだろう。さらに「周りの生徒は教わっていない、かっちょいい筆記体」で、みんなと一緒に習った単語を美しく綴れてしまう。それは彼が自信を取り戻す絶好の機会になるかもしれない。この戦略に説得力を持たせるため、私は彼のバックグラウンドを執拗に説明する必要があった。

2人のキャラクタをがっつりと練り込み、それぞれの生徒のための3つの学習目的と戦略とスケジュールを書いたところ、私のIEPは計28ページになってしまった。しかし、そんなものだろうと思った。それを締め切り時間ギリギリにオンラインで提出した翌日、エレベーターの中で一緒になったクラスメイト(成績が良いので勝手にライバル視している)に話しかけてみた。

「いやー、今回の課題は厳しかったよねえ」
「そうかな? 僕は前回のほうがずっと大変だったと思うけど」
「前回なんて、せいぜい5、6ページで終わったじゃん」
「そうだけど。今回はもっと短くて済んだでしょ?」
「は?」
「僕は各児童に1ページずつ、2ページしか書いてない」
「……なんだって?」

たぶん君は課題の内容を誤解しているよ、盛り込まなきゃならないものを忘れてるよ、と私は言った。そんなはずはない、と彼は言った。さっそく彼の提出した文書を見せてもらった。お見事だった。児童のプロフィールは一人あたり5行ほどしか書かれていない。しかし専門用語を的確に用いながら「その児童が、どのようなタイプのFASとして医者から診断されたのか」「クラスでの学びにおける支障は何なのか」を短く明確に示している。無駄な情報が一切ない。さらっとしている。しかしそれは、同じ病名で診断された生徒全員のためではなく、その児童だけのために書かれたIEPになっていた。

「うーん。素晴らしいね。たぶん、こういうのがお手本なのだな。先に見せてもらいたかった」
「ありがとう。君のは?」
「ちょっと見せられないなあ」
「なんでだよ」
「どうやら私は主旨を間違えていたらしい。インストラクターは『生徒に合わせた』IEPを『なるべく詳細に』書けと言った。私は、その意図を完全に誤解したんだと思う」
「えー、いいから見せてよ」
「あまり気軽に読もうとしないほうがいい。実は28ページあるんだ」
「28ページ?」
「うん」
「ちょっと待って。児童のプロフィールと、3つのゴールと戦略とスケジュールを書くだけだよ? どうやったら、そんな長さになる?」
「分からない。いまとなっては良く分からないんだけど、私が理に適ったものを書こうとしたら、それは28ページになる必要があったんだ」

他のクラスメイトにも尋ねてみた。ほとんどの生徒は2~3ページ、長くても6ページ程度でまとめていたことが判明した。私は大いにショックを受けていた。冷静に考えてみると、私の書いたものはIEPというより、「2人の少年が楽しい学園生活を取り戻すまでの物語」みたいになっていたような気がする。あんなものを提出されたインストラクターは、さぞかし困るのではなかろうか。おそらく叱られることはないだろう。しかし彼女は私の提出物を見て「そうじゃねえんだけどなあ」と苦笑いをするしかないのではなかろうか。やたらと時間のかかるものを読まされて、さぞかし迷惑だったのではないだろうか。いや、きっと最後まで読もうともしないだろう。

翌日、すっかり打ちひしがれつつもインストラクターに話しかけてみた。
「あのー。こないだの課題ですけど。どうも主旨を誤解してたみたいで。長すぎるのを提出しちゃってすみません」
「ああ、T君とJ君ね」
「(名前まで記憶させてしまったことを申し訳ないと思いつつ)どうも私は課題の意図を読み違えていたようです」
「何も問題ありません。こちらの出した要件をクリアしていました。短く書かなければならない場合は、そのように指示します。今回、語数の指定はしていません」
「ですが……他のクラスメイトの皆さんは、もっと簡潔に書いていたので。現実で使われるIEPは、ああいうものなのかなと」
「IEPは、一人の児童のためにカスタマイズした学習戦略を練って承認を得るための正式な文書です。その児童に関する情報が足りないという理由で却下されることはあっても、多すぎて問題になることはないと思ってください」
「それを聞いてしました。しかし……」
「よく書けていましたよ。まさかIEPの課題で、小説みたいなものが届くとは思ってませんでしたが。無駄な情報はひとつもありませんでした。細かい説明が、ぜんぶ『戦略の理由』や『ご褒美の内容』に反映されていました」
「……ありがとうございます」

私は彼女の受け答えに深く感心していた。さすがは障害児教育のエキスパートだ。「ちょっと常識外れなことをする、異常に凝り性な学生」から「ちょっと普通ではない提出物」が届いてしまったときの対応力が違う。それがルールから外れていないかぎりは広い心で対応できるのだろう。どんなにおかしなものが届いても、気持ち悪がったり苦笑したりするのではなく、ルールに則って書かれた課題として真剣に見てくれている。おそらく私の提出物には文法ミスなどもあったはずだ。決してプロフェッショナルな文章ではなかったはずだ。そのあたりも「英語を第二言語としている学生だから」ということで考慮してもらえたのだろう。おそらく彼女は、私にあった無理のない範囲の指導をしてくれているのだ。まったくありがたいことだと思う。

その翌日、学校のサイトにログインしてみたら、自分の成績表にIEPの評価が加算されていた。満点だった。これまでに提出した課題の中で最高得点だ。いや、嬉しいけど。たぶん「ちょっぴりお馬鹿さんな学生が、うんと頑張って書いたから」みたいな優しさが加えられた結果なんじゃないかと思う。本当にこれでいいのだろうか。