昨日一昨日と蜂の巣の話をしたけれど、これは誤解を招くかもしれないと思ったので、ちょっと書いておきたいことがある。
私は、自分が「蜂に刺されたら、その毒性の強弱にかかわらず、死ぬかもしれない体質である」ということを知っている。そして「ちょっと運の悪い条件が重なれば、お互いに敵意がなくとも蜂は人を刺す」ということを実体験で理解している。それでもなお、この家にある大きな蜂の巣と共存していきたいのは、心が優しいからではない。「撤去なんかしたら、蜂さんが可哀想だから」とか、「かわいらしい蜂たちのためなら死んでもいいの」とか、そういうことを考えているわけではない。
私は肉も魚も食う人間だ。ゴキブリを見かけたら殺すし、蚊取り線香だって焚く。できることなら他の生き物をなるべく傷つけたくないものだなあとは思うけれど、それを徹底している人間ではない。ただ私は、「うわあ、こんなところに蜂の巣があるぞ、いやだ、危ない、撤去しなくちゃ」と短絡的に判断できるような人間が大嫌いで、そいつらと同類になりたくないだけだ。
私は8歳から19歳までの11年間、杉並区の集合社宅に住んでいた。その敷地には、野球やらラグビーやらに利用できる大きなグラウンドが併設されていて、そのグラウンドは桜の木でぐるりと囲まれていた。あくまでも球技場として使われている場所だったので、そこに植えられている立派な桜並木に、ふだんは誰も関心を示さない。しかし春になると、ほんの一週間か二週間だけ、その木々の下は花見客で溢れかえるのだった。
小学校5年生の春だったと思う。そのグラウンドで、私は「同じ棟に住んでいる全世帯の花見」に参加させられていた。大人たちはビールを飲み、子供たちはジュースを飲み、それぞれが持ち合った弁当などをシェアしながら、なんとなく情報交換をしあう。そういう花見だった。私は居心地が悪かった。学校以外の場所で、自分と同世代の、特に仲良くもない子供たちと顔を合わせるのが苦手だったからだ。しかし、これが近所づきあいなのだと思って我慢していた。
その花見の席で、どこかの奥様が大きな悲鳴を上げた。弁当に毛虫が落ちてきた、というのだ。そこまでは分かる。急に毛虫が落ちてきたら驚くのは当たり前だし、毛虫の容姿を激しく嫌う人々もいることも理解できる。彼女はぎゃあぎゃあとわめきながら周囲に助けを求めた。私は、その虫(それは毛虫と呼ばれるような毛むくじゃらなものでもなく、細いシャクトリムシ型の幼虫だった)を取り除いてシートの外にぽいと投げた。すると彼女は叫び声を荒げた。「どうしてそんなところに捨てるの、いやだ、怖い、殺して」と。
呆れた私は、「飛ぶわけでもないのに」と言って取り合わなかった。しかし彼女は、私を罵るような口調で「殺して」「殺して」と叫び続ける。ちょうどそのとき、彼女の夫が買い物から戻ってきた。「毛虫? 大げさだなー」と笑いながら、彼はシートの外に放り出された幼虫を踏み殺した。私は愕然としていた。なぜ、こんなことが起こるのかが理解できなかった。百歩譲って、彼女が「もっと遠くに虫を投げろ」と私に言ったのであれば、まだ理解できた。「殺して」とはどういうことなのだ。わざわざ殺さなければならない理由がどこにあるのだ。そして、いい年をした大人が、何の罪もない無力な相手を笑顔で殺生するというのは、一体どういうことなのだ。
私は、さきほどまで叫び声を上げていた奥様を見た。彼女は涙ぐみながら、「もう気持ち悪くて食べられない」「せっかく朝から作ったのに」と、自分の弁当が「汚された」ことについて不満をたらしている。周囲の奥様たちは、そんな彼女を慰めている。私にはワケが分からなかった。いったい何が起こっているのだ。ここは普段、虫が暮らしている場所だ。自宅に食卓があるのに、年に一回だけ、わざわざ虫のいる場所でメシを食っている女が、虫の存在を異常事態であるかのように訴え、ただ自分が不快に思うものを「不快だ」と叫び、それを消せと命じることに、何のためらいも見せない。それどころか、罪のない先住者を殺したあとも、まだ「不快な生き物に触られた弁当は食べられない」と、まるで被害者のような表情で訴えている。そんな人間を、みんなが慰めている。
気持ちが悪いと思った。この奥さんや、それを慰めている連中が、とにかく気持ち悪かった。虫じゃなくて、このババアが死ねばよかったのに。私は、はっきりとそう思っていた。
自分が生まれついたときから圧倒的に強い立場にあり、他者を簡単に傷つけることができる存在だということについて、何の後ろめたさも恥かしさも覚えず、また弱いものに対する気配りを少しも身につけることがないまま、自分が持って生まれた能力と幸運を充分に駆使しながら、決して深く悩むことなく、天真爛漫に、無邪気に、素直に、自分の考えるところの「安全で快適で幸せな人生」を堂々と謳歌しているようなやつが、私は大嫌いだ。大嫌いというよりも虫酸が走る。ぞっとする。気持ちが悪い。
もしも私が彼らより圧倒的に大きく強い存在に生まれていたなら。私は、そんな彼らを「気持ち悪いから」というだけの理由で容赦なく駆除していただろう。ひょっとしたら、わざわざ薬品など使ったりせず、非力な彼らの頭をつまみあげては、笑顔でプチプチと潰していたかもしれない。だとしたら私も同類だ。がっかりだ。そんなやつは蜂に刺されて死ねばいい。