What Comes Around 1

はい。ここから 2 回連続で、「フェミくさい不細工な中年女が、なんかぎゃあぎゃあ言ってるぜ」と思われるかもしれないような話をします。嫌な予感がするという方は、どうぞ前のページにお戻りください。

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「ただしイケメンに限る だろ?」などという言葉を使って、世の女性たち全般を非難する男を、私はどうしても許すことができない。ひたすら苛立たされる。攻撃されていると感じる。殴られる前に殴りかかりたくなる。この件については一度、ちゃんとまとめておきたかったので書こうと思う。一言で言えば「ばーか」というだけの話なのだけれど、あえて長々と説明しよう。

まず申し上げておきたい。

現在では少しだけ考慮されているかもしれない。しかし私と同世代の日本人女性は、幼児の頃からじわじわと「美人でなければ幸せになる権利がない」と教えこまれて育ってきたのだと私は考えている。美人でなければ自分も幸せになれないし、周囲の人も幸せにできない。美人でなければ男性を喜ばせることができない。ブスは周囲を嫌な気持ちにする。だからブスになってはいけない、と様々な形で徹底的に叩き込まれるのと同時に、「ハンサムを選ぶのは馬鹿な女だけ。女は男を中身で選ばなければならない」という不平等な道徳も押しつけられてきた。その不条理さに腹を立ててきた女性がいたとして、「だったら私も男を顔で選んでやる」と決断したところで、いったい誰が彼女を責められるというのか。

たとえばドラえもんのことを思い出してみてほしい。

のび太は決してハンサムではなく、驚くほど頭が悪く、スポーツも全くできず、また非常に意志が弱く、臆病で、とにかく努力をしない、ひたすら寝るばかりの怠け者だ。そんなのび太でさえ「ブスのジャイ子とは結婚したくない、僕は美人のしずかちゃんと結婚したい」という傲慢な理由で泣きわめき、未来から来たロボットに救いを求める。そんな身の程知らずな彼のワガママは、当然のように叶えられ、彼はしずかちゃんと結婚するのだ。なぜだ? ちょっと冷静に考えてほしい。なぜだ?

のび太は、「人を見た目だけで判断してはいけないよ」と未来からの使者に窘められたりしない。「君は何の取り柄もないのに図々しいぞ」と笑い飛ばされたりもしない。美人と結婚したいのは当たり前のことだから、ブスと結婚するのは可哀想だから、ロボットに助けてもらえる。そんな主人公を、幼い男女の読者たちが応援するのだ。なぜだ? しかし、ここで女児は「なぜだ?」と言ってはいけない。しずかちゃんはそんなことを言わないからだ。

この漫画のヒロインには、「嫁にしたいぐらいに美人であること」「顔も頭もいい出来杉くんを選ばないこと」「あまり取り柄のない、頼りないのび太を選ぶことによって、のび太と読者を安心させ、喜ばせること」が要求されている(さらに言えば、小学生のうちからバイオリンの教師や家庭教師を雇える源家のように裕福な家庭で育っていることが望ましいとされるのだが、その件はいったん脇に置いておこう)。「ブスとの結婚を避けて、私と結婚するために卑怯な手を使ったのね。あなたにそんな権利があるの」と、しずかちゃんがのび太を責めるシーンはない。たぶん、この先もないだろう。

なぜ、のび太ごときが「ブスとは結婚したくない」と主張しても許されるのか、いちいち疑問に感じるのは正しいしずかちゃんではない。そのような問題意識を持ってはいけない。ただただ何も考えることなく、ピンクのスカートを着こなす可愛い優等生のお嬢さんとして存在し、パンツやおっぱいをチラチラと見せながらも、エッチなことに対する恥じらいは明確に示し、最後には読者が嫉妬しない程度の、実直な男(のび太)に大人しく嫁ぐのが、この漫画の正しいヒロインである。それは、多くの男性が女性に求める条件に似ている。フェミニズムの話をする女が疎ましがられるのは当たり前だろう。世が求めるヒロインというのは、そういう面倒くさい話をしないシンプルな女だからだ。

ちょっとジャイ子のことを考えてみてほしい。彼女はプロの漫画家になれるほどの才能を持っているうえ、弛まぬ努力で成長を続けられる、自立した素晴らしい女だ。なにしろ彼女は、野菜を販売するような雑貨店の娘として生まれている。絵画の英才教育など受けられなかっただろうし、両親も彼女の才能を伸ばそうとしなかっただろう。周囲の人々は、彼女の努力にも理解を示そうとしなかったはずだ。そういった不遇に屈することなく夢をかなえ、非常に競争率の高い夢をつかむ女、それが将来のジャイ子だ。

さらに言えば彼女には料理の才能もある。もともと逆境に強いタイプで、人々に夢を与えるような仕事ができるばかりか、自分の私生活も充実させられる。のび太には不釣り合いな、まったく素晴らしすぎる女性じゃないか。それでも彼女は「ブスだから結婚したくない」と主人公にガン泣きされる。この漫画のメインストーリーにおいて、彼女は「ブス」以外の全ての特徴を無視されている。この漫画のブスのパートを担うジャイ子は、ただただ殿方を絶望させるだけの存在であり、また、どんな手を使ってでも(時を超えてでも)回避したいものの象徴になっている。

そういうものを「児童に夢を与える漫画」として見せられながら我々は育った。女たちは就学する前から、いつのまにか、この理不尽に対する怒りの芽を摘まれ続けている。たかだかドラえもんの話で大げさだ、気のせいだと言うのであれば、様々な子供向け漫画の男性の主人公とヒロインを思い出してみていただきたい。男性の主人公たちは、不細工であろうと馬鹿であろうと下品であろうと、「心根の優しさ」だの「勇気」だの「強さ」だのを認められて、美女たちから真っ直ぐに愛されているじゃないか。特に私の幼少期の漫画は、そういったものばかりだった気がする。

いなかっぺ大将に至っては、不細工、チビ、すぐ小便を漏らす、田舎者、しかも浮気性という、どう考えたってモテる要素のない男が、不細工なまま、目の覚めるような 2 人の美女と結婚している。分不相応どころか犯罪だ。その無茶な展開が「ハッピーエンド」なのだ。それは、不細工でチビで小便を漏らす田舎者の浮気者と重婚させられた 2 人の悲しい美女をめぐる悲話ではなく、あくまで夢のあるハッピーエンド扱いなのだ。

その点、女児向けのハッピーエンドには夢がない。「不運な境遇にある絶世の美女である主人公が、美しいがゆえに王子様から一目ぼれされて結婚する」という黄金のパターンが、おとぎばなしの時代から平気でまかり通っている。美しさが正義なのだ。近代になっても「それほど美人ではない主人公が、周囲の協力や本人の努力によって、すばらしい美人に生まれ変わり(眼鏡を外して『これが私?』など)幸せになる」というパターンから大きく離れられない。ブスに幸せは許されていない。そこには本当にブスがいない。

あきらかにブスという設定の主人公が、顔以外の何らかの長所、たとえば性格や頭の良さによって、自分には不釣り合いなハンサムを射止めるという話を、私は見たことがない。なぜなら我々は「ブスは咎められるべき存在」という価値観の中で育っているからだ。ブスは見るだけで嫌な気分になるものだからだ。ブスになる女は怠慢なのだ。心が醜いからブスのままなのだ。女は心が綺麗なら姿も美しくなる、少なくとも人並み以上に可愛くなれるはずなのだ。そういうことになっている。

心が美しくて不細工な男はいくらでもいるけれど(むしろファッションや美容にうつつを抜かしているような男は性根が腐っているケースも多いけれど)、心の美しいブスなんてものはいないのだと。我々は、そのように刷り込まれている。「女だけ性格が表に出る」らしいのだ。そこには何の科学的根拠もないだろう。ついでに言わせていただくなら、そのような世界であってさえも、「性格の悪い美女」は悪役として頻繁に登場する。つまり、ここでは「容姿は心を反映する」法則が無視される。その矛盾が公然とまかり通るほどまでに、とにかくブスは否定される。

だから女性向けの漫画でも、主人公の女性の容姿に許される欠点は、せいぜい「おチビちゃん」か「地味」か「貧乳」か「病弱」か「貧乏」か「それほどの美人ではない」程度に留められる。あるいは、「ライバルのほうがもっと美人で金持ち」という設定で誤魔化されてしまう。コメディですら、ブスはブスのまま幸せになれない。我々はフィクションのうえでも夢を見せてもらえずに育っている。

強いて言えば浮浪雲の嫁はブスだ。非常にレアな存在だ。しかし彼女は最初から「ブスだけど心の優しい妻」という役割で登場しているため、主人公との恋を実らせるラブストーリーには組み込まれない。それどころか、ろくに働きもせずふらふら女遊びをする夫を明るく見守り、息子をしっかりと育てる「大らかな妻」のポジションに割り当てられている。それがブスに許される唯一の存在意義なのか、夫のだらしなさに動じず、ロマンスを求めず、ただひたすら健気に黙って明るく家庭を守り、その生活を「ささやかな幸せ」と考えるべきなのか。そう印象づける彼女は、ブスにとっての救いの女神とはならない。

これをひっくり返したパターンを想像してみてほしい。昼間からふらふらと遊び歩き、町に繰り出しては、可愛らしい男の子たちに声をかけてばかりのヒロイン。そんな彼女の夫が、不細工だけど心の優しい男だったらどうする。その不細工な夫は、嫁のだらしない行動を責めることなく、常に笑顔を浮かべて見守る。ひたすら真面目に明るく働き、ひたすら嫁を慕いつづけ、おおらかな態度で子を育てて家庭を守る。おかげで夫婦円満。そんな悲しい話を誰が読むんだ。少なくとも私は読みたくない。しかし雲とカメなら「素敵な夫婦」としてCMのキャラクタにまでなってしまう。私ですら「まあ本人たちが幸せならいいんじゃないの」と感じてしまう。そう感じるように仕込まれてきたのだろう、残念ながら。

腹が立っているので、どさくさに紛れて飛躍した話をさせていただくなら。歴史上もっとも多くの人間に読まれた書物、聖書の主人公であるはずの救い主イエス・キリストでさえ、はっきりとイザヤ書の預言の中に「イケメンではない」ということが書いてある。そこには人を惹きつける容姿ではないと記されている。おそらくは人類史上、最も多くの人間から愛されてきた一人である彼は、その中身だけで民に崇められて(あるいは民を狂わせて)、死んでから2000年経っても、まだ殺し合いのネタになるほどに人々を魅了している。男の主人公はハンサムじゃないぐらいのほうがいいんだろ。やってらんねえよ馬鹿。

 

(後編につづく)