先日、知人がSNSに記している日記を見て驚いた。その書き込みは、彼女がスーパーマーケットで初めてセルフレジを利用したことを報告するものだった。『セルフレジは顧客の良心に依存したサービスだ。このようなものは、日本でなければ決して成り立たないだろう』というようなことを、彼女は文末に記していた。
日本人は世界に類のない道徳心を持った国民性なのだと。他国の人であれば当然のように万引きをするのだと、彼女は本気で信じているのかもしれない。だとしたらすごい。そんな嘘を誰から教わったんだ。それを大人になっても信じているのか。北朝鮮の人みたいにピュアだ。
セルフレジは他国でも広く導入されている。それぐらいは検索すれば分かることだけれど、少なくとも私が初めてセルフレジ(Self Checkout)を利用したのは、日本ではなくシカゴだかシアトルだかで、それは8 年ぐらい前のことだった。ついでに言えば、この町に移住してから、セルフレジの導入されていない大型スーパーなど一度も見たことがない。日本のスーパーのレジが特殊だというなら、むしろ機械のように(あるいは女工のように)安い給料でテキパキと働くキャッシャーさんの優秀さのほうを取り上げるべきだろう。
しかし私は彼女を笑うことができない。私自身、「バンクーバーの市民は優しい」というステロタイプから抜け出せずにいるからだ。もちろん嫌なやつもいる。いい人ばかりだとは言わない。ただ、まったく知らない他人に対する優しさのレベルが根底から違っているよな、と驚かされる機会が多いせいで、「バンクーバーはいい人ばかりだ」という軽率な発言をしそうになる。
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バンクーバーの公共の交通機関では、10枚つづりの無期限の回数券を使うことができる。現金でバスに乗ると2ドル75セントもかかるのだが、この回数券を利用すれば1枚あたり2ドル10セントで乗れる(いずれも1ゾーン90分乗り放題)。また現金で支払う場合は、料金をぴったり払わなければならないので、小銭をじゃらじゃら持ち歩く羽目になる。というわけで、この街でバスに乗る人のほとんどが、回数券か定期券(マンスリーパス)のいずれかを持っている。
移民して間もない頃だった。バス停でバスを待っていた私は、予定時間から大幅に遅れてやってきたバスに乗り込もうとしたところで、手元に回数券を準備していなかったことに気づいた。
「いま、このタイミングでカバンをごそごそ漁ったら、後ろの人に迷惑がかかってしまう」と思った私は、いったん列から外れ、カバンを地べたに下ろして回数券を探し始めた。どこかのポケットに入れたのは確実なのだ、落ち着いて探せば出てくる。まあ、このバスには乗れないかもしれないけど、準備をしていなかった自分が悪いのだから仕方ない。そう思っていた。
しかし、列から外れてしゃがみこんだ私を見て、私の後ろに並んでいた初老のご婦人が言った。「あなた、どうしたの、具合が悪いの?」
「いえ、チケットが。あるはずなんです、どこかに。先に乗ってください」
「見つからないの? 落としちゃったんじゃない?」
「ありがとう、このカバンの中にあるはずなんです」
せっかく先を譲ったのに、ご婦人は私に寄り添って、心配そうな声であれこれと話しかけてくる。私のことはいいから、いいから早く乗っちまってください。そう思いつつ、私は大急ぎでチケットを探していた。そんな私たちを見て、さらに後ろに並んでいた巨漢のおじさんたちが、小銭入れを開きながら近寄ってくる。
「チケットないのか。25セント硬貨はあるか? 俺、2ドル50あるからやるぞ」
私は思わず、彼の顔を見た。発言の意味が分からなかったのだ。なぜだ。なぜ彼は、見ず知らずの人間に2ドル50セントをあげてしまうのだ。それは私の金じゃなくて、君の金だろう。驚きで言葉をなくした私に、若い女の子が近寄ってきて言った。
「私、回数券を持ってるから、一枚あげる」
「おーい、この女の子がチケット持ってるってよ、もらっとけよ」
なんでだ。なんで君たちは、そんなことを普通に申し出るのだ。
「いや、待って、カバンの中にありますから! 気にしないで、みんなバスに乗って!」
「どうした?」
「ああ、運転手さん、ちょっと待ってね、この子がチケットなくしたみたいで、でもこっちの子が」
「なくしてません、あるんです、ほら、あった!」
「おお、あったか!」
「よかったねえ」
「よかったよかった」
ふたたび顔を上げると、いつのまにか私は笑顔の人々に取り囲まれていた。7人ぐらいの人が、私のチケットを見て嬉しそうに笑っている。バスの入り口には誰もいなかった。そのとき私は感謝するのも忘れて、ただ固い笑顔を返していた。でも本当は大声で叫びたかった。「いいからバスに乗れよ」と。