Happy Thoughtless

バンクーバーのいたるところに「フードバンクの寄付箱」が設置されているのを見て、ああ、クリスマスなのだなあと思う。フードバンクというのは低所得者層に届けられる食料の寄付システムで、そこに集まるのは主に缶詰やドライフードだ。幸せな一般家庭がクリスマスのご馳走を買うついでに、お裾分けのような気分で、ちょいと食べ物を買ってプレゼントするという感じで馴染まれてきたシステムなのだろうと思う。

最初の頃、このシステムがまったく解せなかった。なにしろ、ここは他民族の国だ。みんな食べるものがバラバラだ。普段とは違ったスーパーに入るだけで、見たことのないような食材ばかりが並んでいる様子を見られたりもする。街全体がカルディのようになっている。こんなところで「貰って嬉しい食べ物」が届く可能性は低すぎやしないか。さらに、集積された食べ物を仕分けたり送ったりする作業も、すべてボランティアが手でやっているのだ。これもおかしいだろと思った。なぜ、わざわざこんなに面倒な重労働を発生させているのだ。最初からお金にすれば、すべて解決するじゃないか。そのための資本主義じゃないのか。缶詰じゃなくて金を集めりゃいいだろうがよ。いや、そもそも税金があるだろ。みんな結構な額の所得税を払ってるんだから、国が面倒みてやれよ。そんな風にしか思えなかった。

いまではまったく違う発想になってしまった。こんな季節ぐらいはいいことしてみるか、というぐらいの軽い気分で、ちょいと缶詰を買って箱に入れることを躊躇しなくなった。むしろ「現金の募金とか、あんなの誰が払うんだ、聖人かよ」と感じている。うまくは説明できないかもしれないけど、あえて説明してみたい。

まず、こういうのは最初から自己満足だ。「自分ばかり旨いもんを食べてていいんだろうか、食うのに困ってる人もいるんだよな」という、ほんのちょっとした罪悪感を和らげるためにやることだ。自分が気分よくケーキを食べるための行為だ。だったら見えるもののほうがいい。なんだか不運な状況に巻き込まれちゃってるガキにソーセージの缶詰が届くかもしれない、ぐらいのことを想像できるから分かりやすい。大したこともしてないのに、一瞬だけサンタにでもなったかのような気分を味わえる。偽善であろうとなかろうと、要は「ちょいと気持ちよければいい」という、ただそれだけの話だ。これは全体的に、そういうイベントなのだと思う。

こういうイベントでは、現金で募金しても楽しくない。プレゼント感がないからだ。それを扱うボランティアだって同じだろう。「山ほど集まった食べ物を仕分けしたり運んだりして汗を流すこと」が楽しいのだ。街が浮き足立ってるシーズンに、年一回だけ「誰かのために無料奉仕した」という気分になりたくてやってるのだろうから、疲れるほうがいいに決まってる。紙幣や硬貨を数えたり、帳簿をつけたりするのは、たぶんあんまり面白くない。いくら働いてもサンタの気分になりづらい。

「そんなの偽善だ、貰う側にしてみりゃ金のほうがいいに決まってるじゃないか」と数年前の私なら言っただろう。いまなら反論できる。「これは自己満足なんだよ。あくまでも『あげる側』のイベントなんだよ。それが貰う側にも、うまいこと喜ばれたら嬉しいな、ぐらいでいいじゃないか。あげる側にも喜ばせてやれよ。そうでなきゃ、3割も4割も所得税を払って、普通にコーヒー代をケチりながら暮らしてる普通の人たちには『あげない理由』なんていくらでも思いついちゃうじゃないか。たとえ効率が悪くても、それで大量に食料が集まって、みんな楽しめるんなら、結果オーライでいいんじゃないの」と。

もう一つある。それを集める人間を100%信用しなければ、現金はプレゼントできない。人の良心につけ込んで儲けるようなクズが使っちまうかもしれない、という不安が残る。その点、仕分けしなければならないような缶詰の山なら安心だ。そんな面倒くさいものを金持ちは欲しがらないだろう(同じトマト缶が300個ならまだしも、バラバラの人間が思い思いに箱へ投じる缶詰など、転売すらまともにできないだろう)。まあ、急に魔が差して、私のプレゼントしたソーセージ缶をポケットに入れちまうようなボランティアの若者は、もしかしたらいるかもしれない。それぐらいはいいよ。食べたらいいさ。タダで働いてんだからとっといてくれ。「可哀想な人」で儲けてる団体の幹部が、ロビー活動するときの航空券(ビジネスシート)の数ミリ四方になるよりずっとマシだ。