What Comes Around 2.5  *additional

イケメン問題に関する補足として、ひとつ申し上げておきたいことがある。私は、「男性というものは女性を差別してばかりの傲慢なクズだ、女性は常に虐げられてばかりで可哀想だ」と言いたいのではない。

たとえば、あきらかに差別的な言動をする男性を見て、「自分はこうなりたくない、一緒にされたくない」と本気で感じている男性も結構いるということを、私は理解しているつもりだ。「私は女ですが、女が差別されているなんて少しも感じませんよ。そのように騒ぎ立てる人は、被害妄想が強いんでしょうね」と本気で(媚びているのではなく)感じることができる幸いな女性たちもいるということを分かっているつもりだ。また、自分は女性を代表して何かを訴えるような立場の人間ではないし、そんなことの手伝いもしたくない。正直に言えば関わりたくない。

そもそも世の中はものすごく不平等なものだと私は思う。田舎の貧乏人として生まれた人間と、都会の裕福な家で生まれた人間とでは、最初から様々な条件が決定的に違いすぎる。障害のある人と健常者の間にも、有色人種と白人の間にも、発展途上国の市民と先進国の市民の間にも大きなギャップがある。それぞれの後者は、前者の苦労に対して鈍感になりやすく、たとえ前者の気持ちを慮ろうと試みても、恐ろしいほど見当違いな(場合によっては浅はかな)発想に陥るせいで、かえって相手を不用意に傷つける傾向があるという点も同じだろう。「男女の不平等」は、それらの要素のひとつに過ぎない、と私は思っている。

これは決して善悪の問題ではない。常に前者が清らかな被害者、後者が邪悪な加害者だと考えるほど、私は愚かではない。「自分はアジア人を差別したくない」と本気で考え、不遜な白人をいさめようとする白人は決して少なくないし、「弱者」の立場を見事に利用して白人より優位に立つ器用なアジア人だって確実に存在している。つまり「すべての白人が悪い、すべてのアジア人が可哀想」と言うつもりはないし、それは双方に対して非常に無礼な発言だとも思っている。

ついでに言えば「差別される側は本当に不幸なのか?」という問題についてさえ、私は懐疑的だ。たしかに私は、自分が女性であることを呪い続けてきた。もしも「明日から身も心も男性になれる権利」「周囲の人々が自分を男性として扱ってくれる権利」がセットで販売されていたら、明日にでも全財産を投入して買いたい。しかし私は、心のどこかで「女でよかった。もしも私のように勘の悪い人間が男性に生まれていたら、とんでもなく失礼で無神経なクズになり下がっていたかもしれない。石原慎太郎もびっくりの傲岸不遜な男になっていた可能性もある。危なかった」と安心している。また、「どうせ女がこんなことをしても認めてもらえないんだろ?」と思いつつも玉砕覚悟で努力したことが人から認められたときの喜びには、決して男性には味わえない爆発力がある。私は、その楽しみを知っている。そんなとき「虐げられるのも、まんざら悪くないかもしれない」と思う。食事は空腹であればあるほど旨いのだ。

さらに私は時折、「虐げられている」と訴える側が、それを声高に主張したいあまり、少し平静さを欠きすぎて盲目的になっているのではないかと思うこともある。たとえば数年前には、「日本の男もトルコ人の男と同じぐらい子供に優しく接するべきだ、トルコ人の男と同じぐらい育児に携わるべきだ、日本の男には思いやりがない」というような意見を何度か聞かされた。あまりにも無茶苦茶な話だ、よくもそんなことが言えたものだな、と当時の私は憤っていた。

仕事ひとつとっても、平均的なトルコ人男性は毎日毎日満員電車に詰め込まれて出勤したり、決して納得できないことを我慢させられたり、無能な上司にプライドを踏みにじられたりしながら、終電まで残業しているわけではない。ほとんどのトルコ人男性は「イスラム教に基づいた絶対的な法則」の中で、完全に女性よりも優位に立ち、心の余裕がある状態で、「自分が守らなければ弱すぎる存在である嫁や子供」をゆったりといつくしんでいる。そんなトルコ人男性と、日本の一般的なサラリーマンとでは、まったく背景も境遇も違う。そんなに子育てに協力してほしいのなら最初からトルコ人と結婚すればいいだろう。父親は日本人のように働き、トルコ人のように子育てをしてほしいというのであれば、それは少しも人の痛みを理解しようとしない傲慢な発想だ、人をなんだと思ってるんだ、好きな具材だけ乗せて焼けるピザじゃねえんだぞと。いまでも私は、そのように考えている。本来の彼女たちが疑問視するべき相手は、「子供がいようといまいと同じクオリティの仕事を要求する職場で、夜泣きの睡眠不足に苦しみながらも必死で働いている一人一人の男性」ではなかったはずだ(「共稼ぎであれば妻だって同じ条件なのに、それでも妻だけが我慢させられることが問題なのだ、なぜあなたは夫だけ擁護するのか?」と言われるかもしれない。それに関しては謝りたい。しかし私が指摘したいのは、「怒りを向ける方向がおかしくないか、諸悪の根源はそこではないだろう?」という点なので、それをご考慮いただけたらありがたいと思う)。

日本の一般企業で働いている男性の多くが、一般的な女性社員が経験しないタイプの圧力をかけられ、心身ともにボロボロにしながら生きていることも私は少し理解しているつもりだ(その役割を自ら買って出ようとする女性社員が無視されがちであることは、いったん脇に置かせていただく)。私はいくつかの封建的な企業、および外郭団体で、とてつもなく酷い目に遭わされている男性社員たちを何人も見てきた。せめて女性には横柄に接し、無意識に見下すぐらいのことがなければ、到底やってられないほどのストレスを抱えている気の毒な男性は多いだろうと思っている。さらに、そういう男性に傅くふりをして上手に寄生し、うまい汁だけ吸って生きていくタイプのしたたかな女性がいるということも、私は知っている。

とにかく、すべては一概に言えない。男性は常に加害者であり、女性は常に被害者だなどとは少しも考えていない。女性は生まれ落ちた瞬間から「一段劣るもの」として虐げられる傾向があり、その問題について男性は無神経な(あるいは疎ましがる)傾向があるのは事実だ、とは思うけれど、それを訴えることについてさえ、とっくの昔にあきらめている。「あきらめている」というのは、ふてくされているのではない。もしも自分が男性だったら、女性から断罪されることがいかに不愉快なのかを想像できるからだ。場合によっては「鬱陶しい」「関わりたくない」「俺に言うな」「黙れ」「消えろ」と思っただろう。私はそれを不誠実だとは思わない。あまりにも当たり前すぎることだからだ。

たとえば、私が食事をしようとするたびに、その贅沢を罵られ続けたらどんな気分になるか。たとえば私が吉野屋のカウンターに座って注文をしたとたん、どこかのNGO団体のメンバーが現れて、「いまあなたがオプションとして付け足した味噌汁と卵と浅漬けの料金があれば、貧困国の3人の子供が命を落とさずに済んだでしょう。彼らは生まれてから一度も満腹になることがないまま死ぬのです。そこから目を反らして食事をするのは罪深いことだとは思いませんか。この不平等について、あなたはどのように考えているのですか」と問われたら、とんでもなく不愉快だ。きっと私は嘆くだろう。「いったい私が何をしたっていうんだ、なぜ私にそんな話を聞かせるんだ、頼むから黙って食べさせてくれ。ここをどこだと思ってるんだ、吉野家だぞ、せめてもっといいメシを食べてるやつのところに行けばいいだろ」と。たとえ、そのメンバーの発言の内容が極めて正しかったとしても、そんなことはどうだっていい。いずれにせよ自分の牛丼がまずく感じられることに怒りを覚えるだけだ。「強者の立場にふんぞり返って、弱者の生活を顧みず、80円の味噌汁を付け足した自分が恥ずかしい」なんて思うわけがない。「自分は贅沢だった。よし、明日は味噌汁を我慢して募金しよう」なんて絶対に思わない。なんで牛丼にオプションつけたぐらいで、こんな目にあわなきゃならんのだ、という被害者意識しか生まれない。当たり前だ。むしろ、明日も絶対に味噌汁をつけようと思うだろう。たとえそれが本当に、貧困国の子供の命を救える金額であったとしてもだ。

長々と説明をしてしまったけれど。とにかく私は、これらの様々な理由によって、「女はこんなに虐げられています、不平等です」と、あらゆる男性に対して無差別に声高に訴えるようなことをしたくはない。また、相手を不愉快にすることが分かり切っている状況で、嫌われることを承知のうえで、あえて不遇な人々を全面的にバックアップしたいと考えるほど志の高い人間でもない。

ただ、それでも限度というものがある。

もしも白人が黒人に向かって、「いいよなー、黒人はひたすら被害者ヅラしてればいいんだからさ。奴隷制度なんてとっくに廃止されてるのに、いつまでも差別されてるって妄想に取り憑かれてるんじゃないの。そっちのほうが白人を差別してるだろ。なんのかんの言って黒人のほうが、よっぽど楽に生きられるんじゃないの?」と言うのを見たら、それはさすがに限界を超えているなと私は感じる。

あまりに呑気で無神経で大雑把な発言、悪気がないだけに深く相手を傷つけ、心を踏みにじり、深く絶望させるような発言を見たとき、私はそれを本気で許せないと感じるし、我慢するように心がけていたものを爆発させてしまう。それもまた仕方のないことだ、と自分なりに納得している。私にとっては「イケメン問題」が、まさにそれだった。

さらに昨今の私は、現在の日本において、いわゆる男性社会というものを支えている人々(もちろん、そこには女性も含まれている)に対し、はっきりとした恐怖を抱いている。怒りではなく恐怖だ。「奴らの無神経さは、私の想像をはるかに超えている。あまりに際限がない。慈悲を期待しても無駄だ。どんなに疎まれるとしても、どんなに損をするとしても、たまには声を出さないと、とんでもないことになるのかもしれない」と、私のようにだらしない女ですらも思うようになってしまったのだ、あの夫婦別姓合法の報道を見たときから。