From Commonness and Vulgarity

死刑が執行された後に無実であると見なされた囚人たちが、最後に食べた晩餐」の写真を見て、たいへん落ち込んでしまった。

先にタイトルを読んでいた私が、実際の写真を見るまでぼんやりと想像していたのは、たとえばバターを塗ったトーストに目玉焼きとか、ハムの挟まったサンドイッチとか、リンゴひとつに牛乳とか、そういった感じのメニューだった。つまり、「身に覚えのない罪を着せられ、囚人として扱われ、何度も何度も絶望させられた人は、すでに普通の人間らしい欲望を失っているだろう。最後の望みを絶たれ、明日は殺されるという状況下で、それでもリクエストすることになった食事というのは、すっかり達観した内容になるのではないか」と勝手に想像していたのだ。そのような精神状態でなければ、とても自分の置かれている状況と向き合えないだろう、と思っていたのかもしれない。

しかし実際の写真からは、そういった感じを受け取れなかった。みんなメインが肉だ。ステーキとフライドチキン率が高い。まるで貧乏学生が食べ放題に来たときのような取り合わせだ。ごくごく普通の食欲が残っているように見える。脂っこい肉と一緒に、ジャムのついたトーストとか、フライドポテトとかを食べたかった。だからリクエストした。たぶん、この人たちは最後まで狂うことができずに、ごく普通の感覚を残したままだったのだろうなと思ったら、本当に悲しくなってしまった。

たまたま数か月前にも、私は Tumblr で 「死刑囚の最後の晩餐」の画像を見ていた。それを見たときの私は、おそらく完全に興味本位だった。明日に死刑を執行される凶悪な犯罪者たちが、最後にどんな食べ物を求めるのかを純粋に見てみたかった。彼らがどのような理由で罪を犯したのかも調べようとしなかったし、「もしかしたら、この中に一人ぐらいは無実の人がいるのかもしれない」などとは少しも考えていなかった。そして、自分がそちら側になるかもしれないということは全く想像していなかった。

自分が大事にしている、あらゆるものを無残な形で奪われたときに、自分が正気を保てるという100%の自信が私にはない。また(少しは耐性があるつもりだけど)、何らかの宗教なり、何らかの信念を持ったグループなりに洗脳されて、善悪の判断を狂わせてしまう可能性もゼロではないと思っている。もともと「正気を保っている人」と「正気ではない人」の境界線は非常にボンヤリしているから、ちょっとしたきっかけで誰がどうなるか分からないのだ、と普段は考えているはずなのに、その死刑囚の最後の晩餐を見たときの私は、安全な場所から、自分とは何の共通点もない極悪人を見ている視点だったのだろうと思う。もちろん、自分が無実の罪を着せられて死刑になる場面には一度も思いを馳せなかった。

私は死刑制度の是非の話をしているのではない。ただ単に、「最後まで罪を晴らせなかった無実の人たちが、おそらくは自分の置かれた状況を把握できないほど精神を弱らせることもできないまま、まるで私が食べたがるのと同じような内容のメニューを、最後の晩餐に選んでいた」ということを写真で確認させられるまでの間、私は何の痛みも想像せず、ひたすら興味本位で、まるで何かを評価するかのような気分で、完全に思い上がった態度で、こ汚い探究心で、そういった記事をへらへら面白がって読んでいたのだという事実を記しておきたくなっただけだ。