Tuberculosis

いい年をして、まだ人生にいろいろと思うところがありまして。

どうしても欲しくなった資格があって、来年の一月から一年ほどバンクーバーの専門学校へ通うことにしました。入学試験はクリアしたので、あとは手続きを済ませるだけです。などと言っておきながら卒業できなかったら恥ずかしいですし、入学の準備も終わってませんので、しばらくは「何の資格を取ろうとしているのか」を伏せようと考えております。

いまは入学のための書類をせっせと準備してます。ちょっと特殊な資格なので、入学前から何種類かの無犯罪証明書を提出させられたりもしております。これが非常に厄介です。とにかく私は子どもの頃から「書類を提出する作業」が異常なほど苦手でした。つまり通知表をなくしちゃうタイプの生徒でした。一枚の紙を紛失しないように持ち歩くだけで、大変な重労働となるのです。さらに英語ということになれば、申請のたびに聞き慣れない単語や表現が出てきたりもするので、驚くほど体力を削られます。それでも、だいたい終わりが見えてきました。

あとは健康上の問題がないことを証明するため、医師に書いてもらった書類を提出しなければなりません。いえ、実際のところ私には「健康上の問題」が山のように存在しているのですが。ここで学校側に証明しなければならないのは「私がいかに健康なのか」ではなく、「私の肉体が他者に迷惑をかけないか」です。その証明を事前にできなければ、学校に入れてもらえないわけです。

それらの提出書類の中に、「TBスキンテスト(TBテスト)の診断書」というものがありました。「これ、どこに行けば発行してもらえるんですか」と学校に問い合わせたところ、「どこのクリニックでも大丈夫だよ」と言われました。しかし近所のクリニックで書類を見せましたところ、「このテスト、うちではできません」と断られてしまいました。その後はインターネットで情報を検索しながら、複数の機関に連絡し、どうにか私のリクエストを受け付けてくれるクリニックを見つけて診察の予約を入れることができました。「いちばん早い時間だと明日の午前10時45分です」「じゃあ、それでお願いします」というわけで一歩前進です。すごいですね。とても自分とは思えないほどの行動力です。それが当たり前なのでしょうけど。

翌日には、さっそく予約したクリニックヘ向かいました。いつものようにスマートフォンでGoogle Mapsを開き、クリニックの名前を入力し、ベストルートを検索し、指示通りのバスに乗り込みます。まったく便利な世の中になったものです。一度も行ったことのない場所の、どう発音するのかも分からないバス停まで気楽に行けるというのは凄いことです。それにしてもバンクーバーの若者は皆ひとりひとりが、こんなに面倒な書類の提出を一つずつ乗り越えて、自分の選んだ学校に入学しているのでしょうか。彼らは社会人になる前から、こういった手続きに慣らされているのでしょうか。あれ。ひょっとして、北米の人がみんな職場を頼らずに自力で確定申告できちゃうのって、そのせいなの? だとしたら、すごいんじゃない? それは専門学校で教わることよりも、人として重視されるスキルじゃない?

などと考えている間に、目的のバス停に到着しました。クリニックはここから徒歩4分です。予約の時間まで15分。楽勝ですね。マップを見ながらどんどん歩いていきます。あそこにドーナツ屋。向かいにスポーツクラブ。大丈夫です、方角も間違ってません。かくして目的地の住所に辿り着いた私は、建物に書かれた文字を読んでみました。「Commercial Court(商事裁判所)」と記されています。いやいや、それはおかしいでしょう。私は再びマップを見ました。この建物で間違いないはずです。しかし私の目の前にそびえたっている建築物は、いかにも公共施設らしさを漂わせた、古い灰色のビルです。なんど見ても、商事裁判所と書いてあります。商事裁判所。いったい何をするところなんでしょうね。

その場に何秒か立ち尽くしてみましたが、もちろん何も起きません。大丈夫です、インターネットがありますから。クリニックの情報を検索してみましょう。まったく便利な世の中になったものですね。いや、いまはそんなことを言っている場合ではありません。クリニックの名前。えーと、公式サイトはないみたいですね。別の情報から探してみましょう。ええと。ここですここです。「××クリニック(商事裁判所)」とか書いてあります。どういうことなんでしょう。さっぱり分かりません。しかし予約の時間が近づいています。せっかくここまで来たのにドタキャンした挙げ句、また出直しになるのは絶対に避けたいところなので、とりあえず中に入ってみましょうか。あそこに誰かいますよ。

「おはようございます。ここは裁判所ですか」
「おはようございます。ええ、商事裁判所ですよ」
「クリニックじゃないんですか」
「ああ、あなたは海外旅行に行く人ですね?」
「?」
「いったん外に出て。ぐるっと建物の周りを回って。建物のちょうど反対側の壁に、クリニックの入り口のドアがあります。小さいから見逃さないで」
「ご親切にありがとうございます」
「どういたしまして」

ということで、裁判所の建物の中にクリニックがあるそうです。不思議なこともあるものです。それにしても「海外旅行に行く人」ってどういうことでしょう。なんだかさっぱり分かりません。しかし先ほどのお姉さんが言ってたとおり、建物の逆側の壁に小さなドアがありました。「トラベルクリニック」って書いてあります。トラベルクリニックって何? と思いつつドアを開けてみます。幸いにも、ちゃんと分かりやすい受付がありました。

「おはようございます」
「おはようございます。今日の調子はどうですか?」
「すこぶる良いです。そちらはどうですか」
「かなりいいです。今日はどういったご用件でしょうか?」
「はい。こういう書類を、ここで書いてくれると聞いて来たのですが」
「入学用のTBテストね。大丈夫ですよ。予約はしてますか?」
「はい、10時45分で」
「パーフェクトです。そこに座って、この問診票に記入してください」

待合室のソファに座った私は、なんとなく周囲を見渡してみました。壁には大きな世界地図が貼られています。アフリカの動物たちの写真もあります。ディスプレイのコーナーでは、携帯用のトイレや折りたたみの蚊帳が販売されています。ようやく理解しました。なるほど。ここは「主に海外旅行へ行く人が事前にワクチンを打つために来るクリニック」のようです。TBテストというのは、そういう場所で受けるものだったのですね。なるほど。それではさっそく問診票に記入してみましょう。普通の問診票ですね。「自分に該当するものにチェックをしろ」と記されてます。熱を出してるとか。妊娠しているとか。これならすんなり書けそうです。いや、知らない単語もけっこう出てきましたよ。「Thymus disorders(Myathenia Gravis)」とか書いてありますけど、カッコで説明されてもぜんぜん分かりません。検索してみましょうか。「重症筋無力症」だそうです。どっちにしろ何のことだか分かりません。もう、面倒だからどんどん「No」にチェックしちゃいましょうね。

問診票。わりと普通。

次は免疫のチェックです。見覚えのある単語が出てきました。Tetanus、これは知ってます、破傷風です。去年の冬、急に蕁麻疹が出て全身がボコボコになって、どうにもならなくて血まみれのままクリニックへ行ったんです。そのとき「いまの症状とは何も関係ない破傷風ワクチン」を打たれたんです。「日本人は子どもの頃にワクチン打ったきりで、大人になると打たないケースが多いけど、破傷風菌は意外といるよ、これだけ傷がある状態で土に触ったら大人でも危ないよ、いい機会だから打っときなさい」と医師に言われて、その場で素直に打ってもらったんです。はい、このワクチンは打ちましたよと。2016年の11月、と。あとは面倒だから飛ばしましょうか。おや? Japanese B Encephalitisって何のことでしょう。ジャパニーズとしては気になるところですから調べましょう。日本脳炎! そうか、日本脳炎ってのは本当に「日本」だったんですね。なるほど。あとはアレルギーの申告ですか。これはけっこうありますよ。まずはハチですね。あとスギ花粉と、あれ、ちょっと待ってください。

「……TBテストって何だ」

ここで私は、自分が何のテストを受けようとしているのかを初めて疑問に思いました。きっとアレルギーのパッチテストみたいなものだろうと勝手に思い込んでいたのですが、ちょっと違うような気がしてきました。何だか分からないテストをするのは怖いです。しかし事前にクリニックを予約して待合室に座っている大人が、「いったい私は、ここへ何をしに来たのでしょうか」と受付で尋ねるのも恥ずかしいです。大丈夫、こういうときのためにインターネットがあるのですから、さっそく調べてみましょうね。まったく便利な世の中になったものですよ。ええとスマホスマホ。スマホどこだ。さっき使ったのに。さっき日本脳炎とか調べてたのに。スマホどこだ。どこのポケットに入れたんだ。っていうより、なんで最初に調べなかったんだ。

「カヨコ? スクール用のTBテストの方?」
「あ、はい」
「こちらの診察室にどうぞ。そこに座って。荷物はここに置いてくださいね」
「……あの、ちょっとお尋ねしたいのですが」
「どうぞ?」
「すみません。実はTBテストというものが、よく分かってません」
「心配ないですよ。ただ、Tuberculosisを持っていないか確認するだけです」
「……はい」

そのTuberculosisというのが何なのかを知りたいところですが。英語で説明されても、どうせ理解できないということが私には分かっていました。破傷風のワクチンのときに同じことをしたからです。あのときの私は、ワクチン入りの注射器を構えている医師に向かって、「Tetanusって何ですか?」と怯えながら尋ねたのです。その場で原因や症状を説明されたため、とても恐ろしい病気だということは理解できたのですが、それが「破傷風」だとは思いもしませんでした。きっと医学用語というのは、だいたいそういうものなのでしょう。病名を英英辞典で調べても滅多に解決しません。たぶん「盲腸」でも「潰瘍」でも同じです。日本語の、そのまんまの名前を言ってもらわなければイメージできないのです。

「だから今日は注射だけです。注射のあと十分ぐらいは待合室にいてください。急に具合が悪くなると困りますからね。そのあとは二日後に来てください。そこで陽性か陰性かを見ます」
「はい(何の話か、そもそも分かってない)」
「日本で育った人は陽性反応を起こしやすいそうです。おそらく昔に投与したワクチンのせいです。あまり心配しないでください。それだけで分かるわけではありませんから、このあと腫れても驚かないで」
「……はい(なんだか分かってない)」
「陽性の場合は医師が結果を見て判断します。ほとんどの方は、たとえ陽性でも問題ないんです。もしも治療が必要になったとしても、それが終われば学校に行けます。分かりましたか?」
「……はい(ぜんぜん分かってない)」
「じゃあ左腕を出してください。ちくっとしますよ」
「……はい(自分の身体に液体が注入されるのを見ながら、これが何なのかは帰りのバスの中で調べようとか考えている)」

脱脂綿が、やたらと丸い。

というわけで、昨日、数十年ぶりにツベルクリン判定(TB skin test)の注射を打ってもらいました。いまのところ、まったく何の反応もありません。私はいつでも咳をしている人間なのですが、どうやら肺結核ではなかったようです。良かったです。それが当たり前なのでしょうけど。