Last Straw

「なにかというと『女性に対する差別だ』と目くじらを立てて、つまらないことにケチをつけるフェミニストが、息苦しい世の中を作っているのだ。彼女たちこそ、女性の立場を悪くする『女の敵』なのだ」という考えに、私は賛同することができません。そういった「口うるさい方々」が過去にさんざん嫌われながら、あえて男性にとって不愉快なことを主張し、罵られ、ボコボコされても戦いつづけてくれたからこそ、「昔より少しはマシな社会」になったのだろうと感謝しているからです。

いま、馬鹿げた言いがかりに見える訴えの多くは、時間が経てば「信じられないような差別に対する真っ当な抗議」として受け止められるのかもしれません。「おいおい、男女同権って、まさか女を政治に参加させるつもりじゃないだろうな、冗談じゃない」と言われるような時代や、「いくらなんでも学校で男子生徒にエプロンをつけさせたり、女子生徒にノコギリを握らせたりするのはおぞましい、倒錯している」と言われるような時代が、ほんの数十年前までそこにあったからです。「男は男らしく、女は女らしくしろというのは当たり前のことだ。それのどこが差別なのだ」と考える人々から、あいつらは頭がおかしいと笑われながらも、(当時であれば)無茶に聞こえるような主張をしてくれる方々がいたからこそ、現在の我々は投票権を手に入れ、男性と同じように学ぶ機会を得られ、様々な仕事が選択できるようになったのだろうと私は考えています。その恩恵をがっつりと受けている我々が「フェミニストこそ女の敵なのだ」なんて言いぐさはないでしょうよ、と思うのです。

おそらく当時のフェミニストの方々は、いまよりもはるかに強烈な悪意を向けられたはずです。ちょっと何かを主張するだけで、とたんに「キイキイうるさい糞ババア」だの、「男に守ってもらえなくて八つ当たりをしているブス」だの「自分の寛大さを自慢していからブスのご機嫌をとってる男」だのと言われたことは想像に難くありません。そのような状況に苛立った人々が、時には行きすぎた暴言を吐くことも少なからずあったでしょう。それでも感情に押し流されて終わってしまうのではなく、知恵と情熱を持って、真摯な態度で挑んできてくれたからこそ、どうにか話し合いに持ち込み、少しずつ切り崩すことができたのではないでしょうか。

このような理由で、私は「いま、少し過激に見えるフェミニストの発言」を見ても、それを安直に批判したり、笑い飛ばしたりする意見に同調できません。自分は生物学的に女性ですから、その点にはことさら慎重でなければならないとも考えています。なにしろ「私たちは別に参政権なんてほしくないのに。わざわざ政治にまで介入したくないのに。そんな難しいことは男の人たちに任せて、私たちは頼りがいのある強い男性に守られながら幸せな家庭を築きたいだけなのに。変な女たちが余計なことをしている、同じ女として恥ずかしい、あの人たちと一緒にしないでほしい」と呆れ顔で語る女性たちが、一昔前には大量にいたはずだからです。それは、私たちの権利を勝ち取るべく奮闘していた方々にとって最大の壁だったかもしれません。私はどうしても、その壁になりたくないのです。つまりミソジニストたちと一緒になって「フェミの女ってうるさいブスばかりだよね。すごく迷惑。ああいう人が私たちの敵なんじゃない?」と馬鹿にしながら生きるほうが、どう考えてもはるかにお得でお利口さんだということぐらい、女性なら誰しも分かっているのではないかと思いますが、それを分かっていてもなお、決してそうしたくないのです。

しかしです。
しかし、そのように考えている私ですら、これはないわと思うことがあります。「いくらなんでも無茶苦茶だ。この人たちは度を過ぎている」と頭を抱えたくなることがあります。差別の撤廃のためであれば、どこまで横暴になっても構わない、好き放題に攻撃して構わないとは思わないからです。もちろん「ポリコレ棒で殴られた」などといった糞みたいなフレーズを使うつもりは毛頭ありませんが、その行動や訴えがあまりに攻撃的で盲目的(あえてこの表現を使います)に見えたとき、私ははっきりとした嫌悪感を抱かずにいられません。

たとえば私は、「女子供」や「女々しい」などの言葉を耳にすれば軽く苛立ちます。それだけで腹を立てることはないにせよ、決して良い気分ではありません。しかし、だからといって「女偏のネガティブな漢字は差別的な発想から生まれたものだ。使うべきではない。『嫉妬』や『媚びる』などといった言葉は、女性が差別されてきた歴史を軽視している。あなたも明日から使うのを止めなさい」と言われたら、いまのところは頷くことができません。いえ、「男尊女卑的な漢字を廃止して別の字を当てよう」と真面目に訴えている中華圏のフェミニストの方を馬鹿するつもりはないのです。特に彼らの活動を応援してはいませんが、それは一つの主張として理解できますし、充分に話し合えば良いことだと思います。しかし、もしもその方が「現段階で」女偏のネガティブな漢字を使用する個人に対し、「お前は差別に荷担している、悔い改めろ、いますぐやめろ」と攻撃を仕掛けるようなことがあったなら、それはやりすぎだ、やめてほしいと私は感じます。

どの言葉に不快感を覚えるのかは人によって違いますし、それを非難する人の言動を見たときの不快感もまた同様でしょう。それは女性差別の問題に限った話ではありません。たとえば私は平然と「支那」「ホモ」などの言葉を使う日本人の方が苦手です。「いや、誤解しないでくださいね。支那という名前には、これこれこういった理由で歴史的な根拠があるのです。差別的な言葉ではありません、むしろ中国と呼ぶほうが間違いです」などと物知り顔で語り、それがほんの数十年前まで侮蔑語として使われていた事実を軽視している人を見れば、自分とは相容れないなと思います。しかしその一方で、私は「支那そば」と看板に書かれた店を見ても嫌悪感を抱きません。「あなたの店名は差別的だから、中華そばに書き換えなさい」と店主に訴えたいとも思いません。もし、そのような苦情を申し立てる客がカウンター席の隣に座っていたら、少なくとも現時点の私は「せっかくのラーメンが台無しだ」と思うでしょう。

それと同様に、腐女子の方が「私は『ホモが好き』とか言いますけど、同性愛者を差別するつもりは少しもないんです、むしろ応援してることはお分かりでしょう?」などと言っているのを見れば、このたわけ者(あえてこの表現を使います)には本当に参っちゃったなあと思います。その一方、同性愛者が登場している創作物の中で、「主人公が心ない友人からホモと言われて傷つくシーン」があったとしても、その作者には少しも腹を立てません。「この作品にはホモという言葉が出てくる、どのような意図であったとしても、その二文字を目にするだけで傷つく人がいるのだから許せない、発禁処分にしろ、あなたも署名しなさい」と言われたら、丁重にお断りします。

「過剰すぎるフェミニストは迷惑だ」「独善的すぎる人権派にはウンザリだ」という意見は耳が腐り落ちそうなぐらい溢れかえっていますが、ここから先は行きすぎだと感じるラインは人によって違います。そして厄介なことに、「自分は差別を憎んでいる」と考える人も、それぞれ異なったライン(おそらくは複雑に曲がっている)を適当に引いているだけなので、「えっ、そこ?」と思われるような場所で頻繁に対立が起きます。そのラインを挟んだ両者が
「なぜあなたは差別を憎むふりをしながら、そんなことを言うのだ、この偽善者」
「なぜあなたはそこまで過激なことをして我々に迷惑をかけるのだ、この疫病神」
と罵りあっている状況も頻繁に見られますが、そのときが互いに抱く失望や憎悪の気持ちは、近い存在であるほど強くなるのだろうと思います。

たとえば私は先ほど「盲目的」という言葉を使いました。これも人によってはラインを跨いだ表現でしょう。「いままさに手話を学んでいる最中のあなたが、そんな差別的な言葉を使うとは思わなかった、仲間だと思っていたのに裏切られた」と言われるかもしれません。つまり最初から避けたほうが無難な言葉なのですが、あえて私は避けずに使っています。そういう言葉が私には大量にあります。それは自分のルールだけに乗っ取った採択です。もちろん「私は一切、自分のラインを動かすつもりはないから覚えておけ」と言っているのではありません。その判断の境界線を書き換えることができるのは自分であり、決して人から強要されるものではない、と言っているのです。つまり私がラインを引き直すときには、それなりに納得できる理由や動機が必要なのです。

さて、すっかり前置きが長くなってしまいましたが。

私は先日、そのラインを挟んで貴重な友人の一人と対立しました。私がTwitterで使ったひとつの言葉について、彼女はすぐさま「この差別的な言葉を使う人は背景を知らないのだと信じたい。とはいえ、知らなかったで済まされる話ではない」という趣旨のことを(検索されたくないので表現は変えています)ツイートしました。私が「つきあってられん」と言うと、彼女は「リムーブしてくれ」と言いました。彼女は、それだけの覚悟を持って真剣に向かってきたのです。おそらく彼女は、その言葉を本当に見たくなかったのです。私が「支那」や「ホモ」に対して抱くよりも、はるかに強い嫌悪感を覚えたのでしょう。

真っ先に思ったのは「ああ、すげえ面倒くさい」でした。彼女の拘りは私にとって「女偏のネガティブな漢字を使ってはならない」といった主張と何も変わらなかったからです。たしかに語源まで遡れば、その背景には明瞭かつ不愉快な女性差別があり、実際に英語圏の医学は数十年前から別の表現を用いるようになりましたが。カタカナ語で取り入れられた日本の21世紀現在において、それは男女の両方(あるいは集団)の性質や言動を表現する際に用いられる言葉だと私は解釈しているからです。たとえば「嫉妬」も、もともとは差別的な発想から生み出された言葉であり、その発想はそのまま字面に残されており、さらに現在でも「女は嫉妬ぶかい生き物だ」と侮蔑的に言われがちだという背景がありますが、それらの不愉快な事実を理解していてもなお、私は嫉妬を嫉妬と書きます。少なくとも現時点では、他の言葉を当てるつもりがありません。

言葉の意味や用法は常に変化しています。また一面的でないケースもあります。たとえば彼女が忌み嫌った言葉は、英語圏でも「それを使うのは適切か不適切か」が議論にのぼりやすい言葉である反面、一定の群集心理を表現する際には一般的に利用される(というよりも言い換えられない専門用語もある)言葉であり、また「非常に面白い」という意味で形容詞的に用いられることもあります。ちなみに最近、私がその単語を英語ニュースの見出しで確認したのは、トランプ大統領の言動について言及した一文でした。この「厄介な言葉」を取り入れたカタカナ語をどのように捉えるのかは、人によって異なり、そのときそのときの状況によって暗黙のルールすら変わるのだろうと思います。もちろん私も将来的には、その言葉を使わないと決める日が来るのかもしれません。しかし少なくとも私にとって「いま」はそのときではなく、また「数百年前に生まれたとき、その背景に差別があった言葉を使うべきではない」という考えも、私が同意できる範疇から大きくはみ出していました。

そして「すげえ面倒くさい」の次に思ったのは、「なんなんだ、その言い様は」でした。もしも彼女が直接「その言葉を使うのは不愉快なので控えてほしい」「そのような言葉を使うのなら、もうあなたと友達でいられない」と私に言ったのであれば、それに従ったのかどうかは全く別の話として、少なくとも私は冷静でいられたことでしょう。私がどうしても気に入らなかったのは、これまで何度もプライベートな会話を重ねてきたはずの友人が、エアリプという形を使い、「この言葉を使う人間」という枠で私を括ったうえで、済まされることではないと裁き、「それに付き合いきれないのなら、もう私には関わるな」という態度を示したことです。私は、それを非常に攻撃的だと感じました。

しかし何よりも残念だったのは、そのとき私自身の頭の中に、まるで「凡庸なミソジニストや、ミソジニストを味方につけて正論めいたことを言いたがる凡庸な女たちが、馬鹿のひとつ覚え(あえてこの表現を使います)のように使い回している、ありきたりなフレーズのフルコース」がぐるぐる回ってしまったという事実です。それらのフレーズとはすなわち、「女性たちを生きづらくしているのはあなたのような人々だ」であり、「そんなことだから女性はヒステリー(あえてこの表現を使います)だと言われるのだ」であり、「あなたは独善的な判断で他者を弾圧している」であり、「表現の自由を安易に奪うな」です。私にとっては、友人から不快なジャッジをされたという事実よりも、自分自身がそういった安っぽいフレーズの一つ一つをていねいになぞりたおしていたことのほうが、はるかに苦痛でした。それを外に出しこそしなかったものの、私の脳みそは、「さっき自分が不愉快な思いをさせたばかりの友人を様々な表現で厄介者扱いすることにより、自らの正当性を確信しようとする」という卑劣な発想に溺れたのです。

その一方で私は、自分も同じようにして他者を非難してきたことがなかったかどうかを本気で考えていました。そして、過去に自分が殺してきたかもしれない身近なコンテンツの存在に初めて思いを馳せていました。そのようなものが実際にあったのかどうかは分かりません。しかし私の友人は、プロであれアマチュアであれ、何らかの作品やコンテンツを世に発表している人がほとんどです。彼らの多くは「倫理的にギリギリなもの」(ギリギリセーフというよりは、ギリギリアウトなのではないかと思われるものも多い)を生み出しています。そういった彼らの「攻めの姿勢」を私は愛していますので、自分がそれにブレーキをかけるはずがないと勝手に過信していたところがあったように思います。

しかし実際には、私が吉祥寺の居酒屋あたりで「この言葉を使う人だけは許せないんだよね」「こういうモチーフの作品だけは目に入れたくない」「Aは笑えるけどBはさすがに笑えないわ」などと気軽に言い散らかしたことが、何か新しいものを作った友人、あるいは作りかけていた友人に刺さっていた可能性もあるのだよなということを、初めて真剣に考えました。無神経な人には刺さることのない、真面目な人ばかりがまともに食らってしまう私の無遠慮な刃は、単に彼らを傷つけただけではなく、「私が敬愛している○○さんの、誰も見たことのない名作」が世に生まれるのを阻止したかもしれません。私は彼らの体内から胎児を引きずり出し、その首を落として息の根を止めたことがあるだろうか。それを想像すると、とても恐ろしくなりました。

その日の夜、私は眠れぬまま延々と考えました。そして翌日の昼になったとき、「よし、いっぺん自分が殺される側に回ってみよう」という結論を出しました。

私は、その言葉によって不愉快な思いをする友人が実際にいると分かっていても、あえて使い続けるべきだという強い確信を得ることはできませんでした。とはいえ「もしも一人でも傷つく人がいるのなら、その言葉はとにかく使うべきでない」とは少しも思いませんでした(それを決意してしまったら、本当に何も書けなくなることが分かっているからです。ライター業だけで生計を立てている人間にとって、それは失業を意味します)。かといって、このまま何もなかったことにしようと気分転換をすることもできませんでした。私はひとつの言葉で友人を不愉快にし、そして友人から不愉快にされ、自分と彼女の両方に対して眠れぬほど腹を立て、そして最終的には深い恐怖に襲われて悲鳴を上げたのです。これを「なんでもないこと」として片付けられるほど、私はさっぱりとした性格の持ち主ではありませんでした。

彼女は私との人間関係を断ち切ってでも、その言葉に本気で抗議したかったのです。そういう真面目さを私は好ましく思います。彼女は「なあなあに済ませること」「笑って誤魔化すこと」「損得だけで割り切ること」ができない頑固な人で、だからこそ友達になれたのだと思います。その彼女の挑戦に対して、こちらも生半可な対処をするつもりは一切ありませんでした。私は「自分が日本語で気軽に誰かとコミュニケーションできる唯一のオアシス」をしばらく閉鎖してでも、あるいは完全に捨て去ってでも、今回のことを決して水に流したくありませんでした。自分のいなくなった世界で、自分の大好きな人々が、いまでも仲良くハートを飛ばしあっている様子を外から呆然と眺めることになるだけだ、という未来が分かりきっていても、その気持ちは止めることができなかったのです。

つまり「あなたの裁きが一つのコンテンツを殺したところ」を、私は彼女に示さずにはいられなくなりました。

たとえ彼女が、それをまったく恐ろしいと感じなかったとしても構いません。これは彼女への抗議であると同時に、彼女に対するお詫びでもあるのです(ふだんの私たちが軽蔑するような、まるっきり糞みたいなセリフを、私は頭の中であなたにぶつけてしまいましたよというお詫びです)。そして私がいま置かれている状況は、「私がこれまで殺してきたかもしれないコンテンツ」に逆襲された結果でもあるのです。私が長期にわたって利用してきた場所をいきなり削除したのは、そういう理由です。

いまでも私は、自分が差別を憎む人間だと思っています。どのような立場の人でも、なるべく偏見に晒されることがないよう、なるべく多くの機会が得られるようであるべきだと本気で思っています。いま転職のために慣れない勉強をしているのも、それが最大の理由です。しかし「差別を憎む心」というのは、独善的で盲信的(あえてこの表現を使います)な感情を一気に増幅させやすい危険なものでもあるので、その制御は決して容易ではなく、そこに「○○のためだから仕方ない」という免罪符は存在しないと私は思っています(「表現の自由を求める心」も、まったく同様に危険だと思っています)。そして、とりわけ自分のラインを振りかざして他人に干渉するときには、かなりの注意が必要なのだということも思い知らされています。

それでもなお、自分のラインを踏み超えられた痛みが強すぎて、それを踏んだ者に攻撃を仕掛けずにいられない状況であるなら。あるいは、その攻撃を他者から仕掛けられて「ここは決して譲らない」と応戦することを決めたのなら。そのときは、だらしのない慣用句を適当に散らかしたり、上から目線で笑ったり、なにも無かったように終わらせたりするのではなく、馬鹿げているぐらいに真摯な態度で攻防戦を繰り広げてもいいのではないか、もっと死にもの狂い(あえてこの表現を使います)で大きな犠牲を払いながら真面目に争ってもいいのではないか、それは巨大な刀を振り回そうとする人間の責任ではないかと私は考えているのです。