あまり深読みしてほしくない話。
私は基本的に「●●は日本人特有の××」と言われるものの99%以上は気のせいだと思っている。それがポジティブな言葉でもネガティブな言葉でも同じだ。「気のせい」というより、思い込みや勘違いや誤解や自虐や自惚れと言ったほうが適切なシーンもあるかもしれないけど、とにかく普段から私はそのように考えている。しかし、この年になってもまだ「ああ、そうか。自分は今日までこういったものを『日本人らしい』と心のどこかで感じていたのだなあ」と気づかされることがある。
私はかなり長い間、「いくらなんでも日本人は義経を溺愛しすぎなのではないか」と思っていた。そして、いわゆる日本の「判官贔屓」の感情は、わりと根が深いのではないかしらと勝手に考えていた。どれだけ健気に頑張っても「生まれつき運の強い、王道の勝ち組のエリート」に負けてしまいそうな人、才能や実力はあるのに立場が弱い人、ひたすら運の悪い可哀想な人のほうをついつい味方したくなってしまう感情が世界共通のものだったとしても。日本の娯楽における九郎判官義経の人気(特に江戸時代まで)には説明しづらい特別な何かがあるのではないか、それは歴史における義経のキャラクタがあまりにも強烈すぎたせいじゃないだろうかと、私は心のどこかで考えていた。しかし、もちろん「判官贔屓」なんてのは単なる一面を表した言葉でしかない。ちょうど「急いては事をし損じる」と「思い立ったが吉日」の両方のことわざがあるように。「寄らば大樹の陰」と「鶏口牛後」があるように。
たとえば無名の公立高校の野球部が甲子園に出れば、誰からでも愛されやすくなる一方、プロ野球の世界では読売巨人軍が不動の一番人気を誇っている。たとえ「義経千本桜」が義経への偏執から生まれ、ずっと愛されてきた芝居であろうと、それを演じる歌舞伎役者のほうはバリッバリの世襲制度の寵児だ。その俳優がエリートであればあるほど、客が出演をありがたがっちまうのだ。そういうことが分かっていてもなお、私の頭の片隅には「日本人には特有の判官贔屓が」などという奇妙な思い込みがあったのだろうと思う。
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バンクーバーに引っ越してからというもの、毎年毎年ハロウィンの時期になるたび、幼稚園児から成人男性にいたるまで数多くのルイージの姿を見かける。まるで比較にならないほど圧倒的に弟のほうが愛されている。任天堂キャラとしてもサトシやピカチュウを凌ぐ人気だろう。今年はちょうどハロウィンの日に小学校を訪問していたので、何人ものちっこいルイージを見ることになった。マリオは一人も見なかった。日本人でも「王道は敬遠する」「赤レンジャーより青レンジャー」「あえてルイージ」みたいな感情はあると思うけど、ここまであからさまではないような気がする。
「義経とルイージはぜんぜん違う! 一緒にするな!」と言われるかもしれないけれど。気持ちが優しくて(あるいは少しばかり気が弱くて)、メイン街道に入れてもらえなくて、ぞんざいな扱いをうけている可哀想なキャラを偏愛する傾向が強いのは、日本よりむしろカナダのほうが強いのではないかと、それは世代や年齢層をも超越しているのではないかと、ルイージ人気の高さを見せつけられるたびに思う。もちろん、それもほんの一面だけをとらえた思い込みでしかないのだろうけれど。