Code

授業が始まって一日目で愕然とした。インストラクターが何を話しているのか一つも分からないのだ。これはまずいぞと思ってテキストを開いても、章のタイトルから知らない単語だらけ。いや、こういうのは怖くないはずなのだ、大丈夫だ、知っている単語から推測できるはずなのだ、そう思って文字に目を滑らせても、ぜんぜん読めない。少しも頭に入ってこない。知っている単語と単語の組み合わせが見慣れないものばかりだからだ。そしてなにより、「ぼんやりとした意味は分かるけど、漠然としたイメージだけで読んできた単語」が山ほどあったことに気づく。そういう単語ばかりで構成された文章を読んでも、何の話をされているのか分からない。ただ暗号を眺めているような気分になる。しまいには “the” すらも文字には見えなくなってくる。まるでアラビア語講座でも受けているようだ。

それでもさんざん苦しみぬいたのちに、どうにか少しは理解できるようになってきた。しかし分からない文章をクリアになるまで読み解くたび、話の本筋を簡単に見失ってしまう。たとえば

「単語識別の機能を果たす音の最小単位(phoneme)を認識する能力を身につけ、cat と聞いて C と A と T の音を聞き分けることができるようになった子供が、それを『言葉』として認識し、その言葉を表現する文字があることを理解し、cat という表記からネコを想起できるようになるまで」

という、どちらかといえば単純な説明をしている場面で。

「彼らは表記のルール──たとえば CVC, CVVC, CVCe のようなもの、あるいは接頭辞や接尾辞を含めた言語形態論──を基礎から理解したうえで言葉を『読む』ようになるのか、あるいは読んでいくうちにルールを学ぶようになるのか」

という表記が出てくる。さっぱり分からなくて休み時間に頭を抱えていたら、隣の席の生徒(地元の高校を卒業したばかりの19歳)から声をかけられた。

「何か困ってる?」
「困ってる。この文章が何を言ってんのか分からない」
「ああ、これは『子供が CVC みたいな言葉の基礎を理解してから文字を読むのかどうか』っていう話で」
「その CVC で困ってる」
「そうか。これは子音と母音の話。この『CVCe』の小さい『e』はサイレントeのこと。分かった?」
「……君の言うことが何ひとつ脳に入ってこないよ。君の声が言葉として聞こえなくなってきた。理解できる言語で話してほしい」

打ちひしがれる私を見て、彼女は不思議そうに言った。

「えーと、でもサイレントeは知ってるよね?」
「知らないよう」
「英語の最初に習わなかった? 日本では、なにか違う用語で教わるのかな」
「たぶん……習ってないんじゃないかと思う……習ったのだとしたら完全に忘れている」
「そうか。でも、あなたは習っていなくても知っているはずだよ。この C は子音、V は母音のこと。もちろん例外はあるけど、ほとんどの言葉の最後は子音で終わる、そうでなければ『発音しないe』で終わるっていうルールがあるでしょ。このeを『サイレントe』って呼ぶんだけど」
「……(テキストに視線を落とし、目を見開いている)」
「えっ」
「……(テキストを閉じて表紙の文字を見ている)」
「えっ」
「うわあ、みんな子音かeで終わってる! なにこれ怖い! 知らなかった!」
「いやいや! 知ってるでしょ。そうじゃないと日本の人、単語とか書けないはずだよ!」
「すげえ。みんな子音かeだ。しかもeは音になってない。その前の子音しか発音してない。本当にサイレントじゃん」
「ちょっと待って、けっこう例外もあるからね。他の言語から英語に取り入れられた単語には例外が多くて」
「たとえば?」
「CANADA」
「うわっ。先住民の言語か」
「そういうこと」
「うわー……そんなことも分かっちゃうのか……」
「……」
「……あー」
「なんかショック受けてる?」
「みんな子音かeで終わってんじゃねーかよ……なんだこれ……」
「でも日本人ってスペルミスしない人が多いよね。音韻論の基礎を知らなくても綴れるって凄いと思う」
「いや……私以外の日本人は、みんな分かってて勉強してたのかもしれない」
「そうなのか……」
「(テキストのタイトルを見て)Students with mild disabilitiesって、これ私のことじゃん……」
「いや、大丈夫、大丈夫だから」

なにしろ私は日本でまともに勉強をしていない。子供の頃はやや異常かもしれないほどの記憶力があったので、教科書を一度か二度も読めば自動的に丸暗記していた。そのおかげで成績だけはやたらと良かった。しかし途中から教科書に対する興味を完全に失い、まったく読むことができなくなり、それにつられるようにして記憶力も人並みになり、気がついたらすっかり馬鹿になってしまった。もともとIQは気持ち悪いぐらいに低かった。健常者と呼べるのかも怪しいレベルだった。特に空間把握能力は壊滅的だった。いくつかの要素については教師から「そういう能力が欠けている子供はいるんだ、あきらめなさい」とまで言われた。ただテストと論文だけは得意だったので、入試のための勉強をしないまま、成り行きだけで大学まで進んでしまった(高卒での就職面接に失敗したのだ)。

そういう人間なので、ところどころに驚くほど大きな欠陥がある。このCVCも欠陥のひとつなのかもしれない。そんな人間が「子供の言語障害に向き合うカリキュラム」を受講している場合なのか。いま、まさに自分が「向き合ってもらっている側」じゃないか。日本のみんなも知ってたんだろ。英語は子音で終わるって。みんな教わってたか、教わらなくても理解できたんだろ。そんな気がしてきた。みんなが一つずつ缶切りを渡されて缶を開けていたとき、本当は私だけが缶切りの使い方を分かってなくて、それをスライドさせる手法を知らないまま「いっぱい穴を開けて繋げる」という方法で開けてたんじゃないのか。それに今日まで気づいてなかったんじゃないのか。どうしよう。なんか怖い。

「いや、まだ勝てる。私、サイレントeは知らなかったけど、この問いかけがおかしいのは分かる!」
「え」
「ルールを知ってから言葉を読むのか、言葉を読んでルールを知るのか、の二択にするのは間違ってる」
「うん、ここから『トップダウン型の学びと、ボトムアップ型の学びは相互関係にある』っていう話になるんだけど」
「そういうことじゃない!『ルールを知らないまま言葉を読んでて、いまでもそのことに気づいてない子供』もいるんだよ!」
「なるほど」
「だって私がそうだもん!」
「説得力あるわ」
「だから私のような人間のほうが、彼らを理解できるかもしれない!」
「……もしかしたら、それはあるかもしれない。うん。きっとあなたにしかできないことがある」

19歳のクラスメイトに、すごく大人の目線から慰められてしまった。

たった2行の文章を読むだけで、この騒ぎだ。こんなに苦労して、半べそをかきながら勉強して、どうにかテストでは満点を取れたけれど、「言語障害を持った子供」に関する授業は一週間で終わってしまった。来週には新しいテキストを渡される。今度は「数字や量の認識力が不足している子供」と向き合うための一週間の授業が始まる。本当にこんなことで大丈夫なのだろうか、私は。