もちろん旅の予定も立てられない

本日の業務。翻訳1本、某コラムの構成案提出。私はいつも「どんな原稿を書くか」を何も決めずに、ひたすら資料を集めて、しばらく眺めて、さあ書き始めようと思ったところで、あえて5分ぐらい我慢して、そのあと最初の一文字から最後の一文字まで一気に書く(途中で止まってしまった場合は最初から書き直す)という方法で原稿を書いているので、事前に構想を練ることが一切できない。

それでも依頼があったので書いてみた。慣れない作業で異常に疲れてしまった。さらに、構成案を書きあげた時点で、ある種の達成感が得られたので、その問題に対する関心が薄れてしまった。というより、もう飽きちゃったから書きたくない。どうしよう。実際に提出する原稿が予定とぜんぜん違う内容になったら、やっぱり怒られるんだろうか。

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文章というのは、みんなそうやって一気に書くものなのだと思っていた。どうやら違うらしいということに気づいたのは高校3年生のときだ。

私は大学入試の際、ほとんど小論文を書いただけだった(若い方々のためにお伝えすると、昔はそのような一発芸の入試制度が複数の大学に存在していたのです)。その試験のとき、会場では全員に一枚ずつ無地の紙が配布された。「白紙のほうは自由に使って構いません」と、試験官は当たり前のような口調で言った。私は、その言葉を半笑いで聞いていた。おいおい、自由に使えって言われても。小論文で計算式なんざ書くわけがないんだし、こんなもん何に使えばいいんだよ。もしかして芸術的な文章を書く人は、利き手じゃないほうの手で絵を描きながら論文を書いたりするのか? そんなことを考えたりしていた。

そして試験が終了して原稿用紙が集められたとき、ふと見渡してみたら、周囲の皆さんは白い紙いっぱいに文字を書いていた。「序文」とか「考察」とか「結論」とかいうような見出しの下に短い文章が並んでいた。それを見たとき、ぎょっとした。ああ、そうやって書かなきゃいけなかったのか、ぜんぜん聞いてないぞ、なんでみんな同じことしてるんだ、もしかして大学の入試要項に説明があったんだろうか、こっちの紙まで採点に使われたらどうしよう、おい、ブルドッグの絵とか描いちまったぞ、大丈夫なのか。

その後、もう一つの大学でも同じような受験をした。やっぱり白い紙が配られて、そこにみんなアウトラインを書いていた。そのとき私は確信した。たぶん私が物知らずなだけだ。なんということだ、小論文にはそんな書き方のルールが存在していたのか、ぜんぜん知らなかった、みんなどこで教わったんだろう、もしかして私立の高校には「小論文」のクラスがあったりするのか。

それでも両方に合格したのだから、たぶん私のやり方のほうが良かったのだろうと思う。宝くじのような倍率を勝ち抜いた私と、周りの受験生の皆さんとの違いは、たぶん「白い紙を使ったかどうか」だけだ。あのとき成功したのは、私がアウトラインを書かなかったからだ。きっとそうだ。そうに決まっている。アウトラインを書いたら負ける。これからも、そう信じていたい。こんな面倒くさいことは二度としたくないからだ。

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【本日、アップロードされたお仕事】 翻訳1本。ものすごく面白い記事だった(単に個人的な趣味で)。