Intentionally or Carelessly

ブラックフェイス問題で思い出したことがあるので書いておきたい。たぶん長くて鬱陶しい文章になるだろう。その点について先にお断りしておきたい。

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どちらかといえば私は人種差別に対して、わりと厳しい考え方をするほうではないかと思う。時として、口うるせえおばちゃんになってしまうこともあるよなと自覚している。しかし、それは「自分たちのチームが別のチームを差別したとき」に限定される話であって、自分が差別される側になったときは割と平気なのではないかと。数年前までの私は、そう思っていた。なにしろ私は女性として、しかも日本で生まれているのだ。それがどのようなものなのか、日本人男性の方々には決して想像できないだろう(もう、この件については何を言っても虚しいというステージに到達しているので、今回は多くを語りたくない)。

とにかく私は「メインストリームを歩くべき存在とは、良くも悪くも異なったもの」として扱われることに慣れている。だからとっくに痛覚なんて馬鹿になっているはずだと思っていた。実際、私は「出っ歯でメガネで吊り目の日本人」のイラストを見せられても、「ブランドで身を固めた頭の弱そうな日本人観光客」の仮装を見せられても、ちっとも腹が立たなかった。痛くも痒くもなかった。「女とはこういう生き物なのだ」という価値観が当然のようにまかりとおる世界で、何十年も悔しい思いをさせられていれば、この程度のことでは傷つかないようになるのだなと。けっこうな年になるまで、私はそう思っていた。

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それが間違いだったことに気づいたのは、カナダに移民してから2年目の冬だった。

そのときの私は、専門学校の準備コース(学生証も発行されるけど授業料は無料)の、ほとんど移民ばかりで占められているクラスで英語を勉強していた。移民してからの数年間は、いろんな学校に無料で通わせてもらったけれど、このクラスは特におしゃべりな人が多く、しかも生徒の人種がバラけていたのが特徴的だった。

いろんな国の人がいれば、いろんな偏見に晒されたり、自分の偏見に気づいたりする機会が増える。つまり「うわー、日本人って(アジア人って)そんな風に思われてたのかよ」と驚くことも多ければ、「どうやら私は○○人に対して先入観を持ってたらしい」と反省したりすることもあった。人権問題にうるさいカナダ人であれば口が裂けても言わないような、きわめて率直な厳しい言葉も聞くことができた。それは貴重な経験だったと思う。しかし「ひでえな」とショックを受けることがあっても、私は冷静でいられた。少なくとも自分は冷静なつもりだった。そんな自分が誇らしいとさえ思っていた。

ある日の休み時間。私は教室で、クラスメイトのTと雑談をしていた。

Tはメキシコ出身の女性だ。自国の大学を卒業してからカナダに移住したばかりの、ケラケラとよく笑う若い女性だった。たいへん美人だった。まるで人形のようにクッキリと整った顔をしていた。その小さな顔が少し斜めになるだけで、彼女の長くカールした睫毛は輪郭から軽々と飛び出すのだ。その顔を見るのが私は好きだった。単純に綺麗なものを見られることが嬉しいと思っていた。

その美しいTが私に言った。「カナダの人は差別にうるさすぎると思う、あまりにも過敏で息苦しい」と。私は「いいことだと思うけど」と答えた。するとTは少し怒ったような口調で言うのだった。

「いくらなんでも、ちょっと鬱陶しすぎない? 私だって差別は良くないと思ってる。でも、さっきの授業なんて厳しすぎて笑っちゃったよ。『あそこのターバンを巻いてる人』って表現するのはダメだって」
「正直、それは私もちょっと厳しすぎるなと思った」
「ターバン巻いてるのは変だとか、怖いとか言ってるわけじゃないんだよ。実際ターバンを巻いてる人なんだから、ターバン巻いてる人って言うしかないよ」
「たしかに『ダメ』って言われても、代替え案を出してくれないと、どう言っていいのか分からないよね。皆さん自分で考えてくださいって言われてもさ」
「たとえば『あそこのイスラムっぽい人』だったらいいわけ?」
「そっちのほうが問題あるでしょ」
「でしょ? 考え出したら止まらない。そんなこと悩んでる間に、ターバン巻いた人どっか行っちゃうよ」
「あんまり考えてたら、本来の目的を忘れちゃうことあるよね」
「だから私は、言ってる側に悪意があるのか、差別的な意識があるのかで総合的に判断してほしい。こないだ私、R(クラスメイトのインドネシア人)の名前が思い出せなかったの。でも先生から『いまは誰がファイルを持ってますか』って訊かれて、Rの名前を急に忘れたから、小さい声で『H(中国人)より黒いけど、G(アフリカ系)ほど黒くなくて、背の小さい子』って言ったら、ものすごく怒られた」
「そりゃ怒られるよ!」
「だって実際そうでしょ? 他にどう言えば良かったわけ?」
「なんか他にあるでしょうよ。肌の色はダメだよ、どう考えても」
「待って待って。こっちには何も悪意がないの。私はレイシストじゃない。人種差別は大嫌い。アジア人は野蛮だとか、ヨーロッパ人は偉いとか、色が白いほうが格上だとか少しも思ってない。だからこそ気軽に言ってるの」
「それは分かってる。あなたに悪意がないことは分かってる」
「差別とは関係なく、見た目の特徴に言及しなきゃならないときってあるじゃない? 私だってヒスパニックで括られるんだろうし、他に表現しようがないでしょ。こういうことは、あまり神経質にならないほうがいいと思うんだ。実際、みんな違うんだから。違うから楽しいんじゃない? あなたは白くて、あなたは黒くて、あなたはスカーフ巻いてて、あなたの髪は縮れてて、バラバラで楽しいねって。上だとか下だとかないの、みんなそう思っていれば誰も怒らないはずでしょ」
「……」
「そこから勝手に『差別された』って感じるのは、受け止める側が自分の特徴を卑下してるせいなんじゃないのかな。劣等感を持ってるほうが問題じゃない?」
「……」

そのときの私は、本当は反論したかった。「あなたはアジア人と違って、見た目や人種で揶揄される機会が圧倒的に少ないのだから、あなたがそれを言ってもぜんぜん説得力がないよ」ぐらいのことを言いたかった。でも言わなかった。彼女には彼女なりの辛い境遇があったはずなのだ。「大まかな白人系」のグループに入ったときのヒスパニックの女性が、どんな思いをすることになるのか私には想像できない。だから攻撃に繋がりかねないことは言うべきではないだろう。そう思ったので、黙って聞いていた。Tの主張は延々と続く。

「だから、どんな特徴だって気軽に言い表せばいいし、それを受け止める側もおおらかになれば、そっちのほうが楽しいと思う」
「うーん、部分的には賛成するけど」
「ちょっと真剣に考えてみてよ。『これを言っちゃダメ』『あれを言っちゃダメ』って制約が多すぎたら、誰だって疲れるでしょ。それで気を遣いすぎると反動が起きると思うんだ」
「確かにそれは、あるかもしれないね」
「たとえばアジアの人のことを話すとき、こんなのカナダでやったら絶対に怒られるでしょ」

そう言ってTは突然、両指を自分の目尻に当てた。まさか、と思った。そんなことは起きるはずがないと私は思った。しかし彼女はやった。彼女の大きな目が糸のように細く引き延ばされる。「吊り目ジェスチャー」だ。それを見たとき、まるで条件反射のように、どこかにヒビが入ったような『ミシっ』とも『メキっ』ともつかない音が私の脳みそに響いた。大げさな表現ではなく本当に何かが音を立てた。それと同時に私は、身をこわばらせて「あっ」と小さな声を上げていた。なんの「あっ」だったのかは分からない。彼女にも聞こえなかっただろう。

「……ね? あなたはこんなのを見ても怒らないでしょ? 私が差別していないことを分かってるから。でもこういうの、一部の人だけが過剰に怒るじゃない。私は目が細い人が醜いなんて少しも思ってないのに。ただの特徴でしょ。目が丸くても細くても美人は美人だもん。それにアジア人の子供って、みんな目がこんなんですごく可愛いと思うし」

そう言って彼女はもう一度、さっきよりも勢いよく、そのジェスチャーをやった。私は再び「あっ」と小さな声を上げていた。その動きが確実に与える破壊力の高さに呆然としていた。

写真や動画ならば、私は以前にも吊り目ジェスチャーを見たことがあった。それはアジア人として決して気分の良いものではなかったけれど、特になんてこともないなと思った。あまりピンとこないとすら思った。もしも自分がそれをやられても全く大丈夫だろうと想像していた。

いま思えば、それは「わざわざ自分たちが侮蔑されるところを自分の意思で見に行っていたから」だ。実際に、アジア人ではない友人から急に目の前でそれをやられると、まったく印象は違った。本当に違った。「それを見せられたら馬鹿にされたように感じる、なんだか腹が立つ」などと道筋を立てて考える余裕なんてないのだ。ただ、膝の下を叩かれた脚がピコッと大きく跳ね上がるように、吊り目ジェスチャーを目にした瞬間、私の頭には音が響き、身体がこわばり、同時に声が出たのだ。え、ここまで凄いのかと。私は自分の身に起きた変化に驚いていた。しかし彼女は私の状況には気づかぬまま話を続ける。

「……ここにはいろんな国の人がいるじゃない。だから私はバンクーバーが好き。あなたもそうでしょう? それなのに、お互いの違いについて言及するなっていうほうが」
「ねえ、T」
「え?」
「そのジェスチャーは二度とやらないほうがいい」

私は、やっと口を開くことができた。なぜか「あなたの行動のせいで傷ついている」と思われたら負けだという気がしたので、変な声にならないように、努めて穏やかに言ったつもりだった。しかし彼女は私の口調から何かを察したらしく、驚いたような表情で言った。

「え、気を悪くした? ごめんなさい、でも分かるでしょう、私は本当に差別するつもりなんてない。さっきから言ってるように、私は」
「Tの主張は分かった。でも、そのジェスチャーは二度とやらないでほしい」

それしか言えなかった。なんだか泣きそうな声になっていることに気づいた。たぶん「クラスメイトから人種差別的なジェスチャーをされたから」ではなく。「そのおかげで劣等感を煽られたから」でもなく。ただ私は、そのジェスチャーの破壊力に驚いて泣きそうになり、それを悟られまいとする感情が何なのか分からなくなって、軽いパニックに陥っていた。

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いまでも私は、ありありと思い出すことができる。まるで、いま私がキーボードを叩いているテーブルの向こうにTがいるかのように。まったく何の悪意もないTが、あのぱっちりとした大きな目を乱暴に引き延ばした瞬間を。あの美しく整ったTの顔が、「アジア人の身体的特徴を安直に示すための無邪気な行動」ひとつで醜く歪められた瞬間を。そのとき私の脳内に響いた音を。いまでも私は、記録動画を見ているように生々しく思い出すことができる。それを思い出すたび、なぜかアゴの奥の筋肉がこわばって、全身に軽い震えが走る。なぜなのかは分からない。少なくとも怒りに震えているのではない。それだけは分かる。ただとにかく、条件反射のように震えてしまうのだ。

そこに悪意があろうとなかろうと、差別的な意図があろうとなかろうと。おそらく世の中には「やってはいけないこと」がある。2017年の地上波の番組でブラックフェイスは、どう考えても完全にアウトだと私は思う。たまたま日本で大人気のテレビ番組を見ていた黒人の方が、どんな気分で新年を迎えたのか想像するだけで胸が痛む。あの、何かが壊れるような音と同じものを聞いた人がいるのかもしれないと思うと悲しくなる。

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その表現がアウトだということを承知のうえで、あえて不謹慎なお笑いに挑みたいというのなら、地下の小さな演芸小屋あたりで、殴られるのを覚悟のうえでやってもらいたい。それなら私だって見てみたい。もしもバンクーバーの怪しい飲み屋で、酔っ払いの客を相手にしたスタンダップコメディアンが、不謹慎なネタを故意にやっている最中に「吊り目ジェスチャー」を断行したなら、私も「うわ、こいつ本当にやりやがった」と笑いながら言えるかもしれない。あの破壊力の大きさを笑いに変えようとする試みだと言うのなら、私は自分から金を払ってでも見てみたい。

しかしカナダのテレビ番組に出ている有名人が、まったく悪びれる様子もなく、ただ目尻にセロテープを貼るだけでアジア人の俳優になりきり、それを見た別の出演者たちが楽しく笑いあっているというようなシーンがあったら、私は「攻撃された」と感じるだろう。こんな国に住んでいて大丈夫なのかと不安になるだろう。差別するつもりはなかった、ただのネタだった、悪意なんて少しもなかったと言われても、何の慰めにもならない。むしろ「誰を傷つけるつもりもなく、なんの屈託もなく、それを楽しくやられること」のほうが恐ろしいからだ。