Filipino Food 3

フィリピン料理の喜びを私に教えてくれたのは、香港出身の友人Aだった。

先月、私は旅行中の友人Aの家に数日だけ泊まり込み、彼女の飼い犬のお世話をしたのだが、そのあとA宅の合い鍵を自宅に持ち帰ってしまっていた。優しいAは少しも怒らなかったどころか、職場の昼休みを利用して、私の自宅に近い駅まで鍵を取りに来てくれると言った。というわけで、その日の私は近所の駅前でAを待っていた。そして時間どおりに現れた彼女は、私から鍵を受け取りながら言ったのだった。「もしも忙しくなかったら、一緒昼ごはん食べない? この駅の近くに、ちょっといい店があるから」と。

普段であれば私は、こういった突然の誘いは即座に断る。物価がクソ高いバンクーバーで数学のチューターをしているA(しかも共稼ぎ)と、明日の儲けすら予測できない出来高制ライター(民家の地下室に住んでいる独身)とでは、根本的な金銭事情が違うからだ。余裕ある人間のペースにノリだけで合わせると、貧乏人はあっという間に地獄を見る羽目になる。わざわざ家の近くまで来てくれた友が誘ってくれたからといって、ちょいと無理して素敵なランチタイムにつきあったりしょうものなら、外食代のみならず睡眠時間も労働時間も一気にゴリゴリと削られるのだ。それが分かっていてもなお、友との楽しいひとときが癖となり、毎日の自炊が面倒くさく感じられ、やがて同じことを繰り返すようになれば、すぐさま人生が崩壊する。(こういう貧乏くさい考えは、いい年をして恥ずかしいものなのかもしれないけれど、少なくとも私はそうやって生き延びてきたし、この程度の理性がなければ、自分はとっくに破産していただろうとも思っている)

しかしAは、私にとって「特別メシ枠」の友人なのだった。

心優しきAは、いつも迷惑ではないレベルで私の懐事情に気を配ってくれるうえ、なぜか恐ろしいまでに私の趣味を熟知している。数年前、まだクラスメイトだった彼女から「チャイナタウンにあなたの好きそうな店があるから、こんど行かない?」と誘われたことがあって、わくわくしながらついて行ったら、そこは当時の私がチャイナタウンで一軒だけ通っていたリーズナブルな香港料理店だったというぐらいに、彼女の選択は的確なのだ。そんなAの誘いを私は断ることができない。というより、私の自宅に近い店をAが選んでくれるというのに断れるわけがない。

「行きたい」
「お仕事は大丈夫?」
「たぶん。このあとAも職場に戻るんだよね?」
「午後は1時半からだから、40分後ぐらいにここを出れば間に合う」
「40分の昼休憩なら問題ないよ。よし一緒に食べよう。どんな店?」
「あなたは気に入ると思うよ。フィリピン料理の店で」
「フィリピン料理? この近くに?」
「ほら、ここ」

Aが指したのは、ほとんど「駅前」と呼べるようなエリアだった。つまり、私が日常生活の中で何度となく通りすぎてきた場所だった。たしかに言われてみれば、そこにはガラス張りの店があって、ドアに「LUNCH」とか「OPEN」とか書いてある。しかし私は、それを飲食店だと認識したことが過去に一度もなかった。完全に風景の一部として見ていた。なんというのか、その界隈の場末感に溶け込みすぎていて、客の目を引こうとする空気が微塵も感じられないのだ。

「ねえ、A……訊いてもいいかな」
「なに?」
「この店の名前が読めない。これ、なんて読むの」
「店名? あー読めないね。私も知らない」

Aは笑った。私はぞくぞくしていた。なぜなら、それが日本であろうと海外であろうと、「客が店名を知らずに通っている店(あるいは客が勝手な呼び方をしている店)」というのは、私のお気に入りとなる確率が異様に高いからだ。いや、しかしフィリピン人なら読むことができる店名なのだろう、それなら普通の店と同じじゃないか、期待しすぎるのは危ない、そう自分に言い聞かせながらドアを開けると、その店内はまるで小さな学食のようだった。もういちど言おう。決してフードコートではない。そこは小さな学食に似た空間だった。

(まだ続く)