Taxi driver

ラスベガスの最終日、バンクーバー行きの飛行機に乗るためにタクシーを呼んだ。とにかく安い便を予約していたので、タクシー会社に電話をしたのは午前4時頃だった。そのときの私は、自分があきらかに体調不良であることに気づいていた。すごく暑いのに寒い。とても眠い。全身がだるい。

やがてホテルの前に現れたタクシーの運転手は、やたらと背の高い陽気な黒人の兄ちゃんだった。私はタクシーに乗っているときの沈黙が非常に苦手なので、運転手さんが雑談を仕掛けてくれた場合には、なるべく積極的に会話を続けることにしている。

「日本人なの? へえ、そんな大きなスーツケース持って、遠くから出張ってのは大変だね」
「いや、バンクーバーに移住してるから、そんなに遠くないんだ」
「移民なのかー。日本に帰りたくなるでしょ?」
「そう思ったことは、これまで一度もなかった」
「へえ、日本人の観光客は、早く家に帰って日本のご飯を食べたい、って言う人が多かったけどね」
「私、ほとんど外食しないし」
「なるほど。じゃあ彼氏もバンクーバーにいるの?」
「私の彼氏は、世界のどこにもいませんよ」
「えーまじでー。なんで作らないの?」
「作ろうと思って作れるものでもないでしょう」
「クラブとか行きなよ。まだ若いのに、彼氏いらないってのはおかしいでしょ」
「そうかなあ」
「セックスしたくならないの?」
「性欲は20代で底をつきました」
「おお! 『日本人はセックスしない』って噂は本当だったのか!」
「どんな噂だ」
「雑誌だか新聞だかで読んだんだよ。日本人は、もうセックスにあまり興味がないって。なんでだよ。日本の姉ちゃん、可愛い子ばっかりじゃん。なんで彼女たちとセックスしないんだ、日本の男は」
「さあねえ」
「それなのに、ネットのエロ画像は日本製がやたら多いのはなぜだ。わけが分からない!」
「我々のポルノはクオリティが高いから、もはや現物などいらんのでしょう」
「そういうことじゃないだろ! あんたもおかしくなってるんじゃないのか、しっかりしろ!」

それから空港に着くまでの間、「そのような発想は生き物として間違っている」「人間はセックスをしなければならない」「我々はそういう風に作られているのだ」「なにしろセックスは健康にもいい」「一日も早く、ちゃんと恋人を作ってセックスをしろ」「そもそも性欲があるとかないとかいうのがおかしい」「心と体は繋がっているものだ」「セックスによって愛情も深まるものだ」という説教が延々と続いた。もはや私には何も喋らせてくれない。私は寝不足と体調不良で吐きそうになるのを堪えながら、それを黙って聞いていた。

拝啓。いま、わたしは夜明け前のラスベガスにいます。車の天井に頭が届くほど背の高い黒人の兄ちゃんから、たいへんリズミカルな英語で、まくし立てられるように、「理屈をこねるな、きちんと定期的にセックスをしろ、セックスは大事だ、なんなら友達を紹介するぞ、このままじゃダメだ」と叱られています。なんだか、ずいぶん遠くまで来たような気がします。

そのとき私の頭の中には、そんなモノローグが流れていた。自分の声で。

*

ちなみに、この兄さんは私がタクシーを降りるときに名刺をくれた。「こんどラスベガスに来るときは電話しろ、好きなタイプを事前に言ってくれれば、俺の友達から選んでやる。みんないい奴だから大丈夫だ」とか言われた。本当に親切な人だった。ただ、「なんなら俺でもいいぜ」的な冗談を一度も言われなかったのが、なんとなく引っかかっている。